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鬼無里歴史の旅

太古の日本列島 ■大古は、海の底
日本列島は、太古から長い時間をかけて海底から隆起し、今日の姿になりました。
鬼無里の山里も太古は海の底でした。
鬼無里ではおよそ600万年前の地層が一番古く、その当時、日本周辺は図のよう
でした。左下図は、裾花川渓谷に露出する日影(ひかげ)砂岩礫岩層が堆積した
時代の海と陸の状況です。すでに北アルプスは陸化しており、日影砂岩礫岩層は、
この北アルプスから川が運んだ古生層の岩石や火成岩を含んでいます。クルワド
ウ沢の団塊(ノジュール)とよばれる、丸い礫がこれです。ほかにホタテガイ、ザル
ガイ、ツキガイなどの貝化石や落葉広葉樹の葉の化石、海底生物の巣の痕である
サンドパイプなどが見つかっています。

■一之坂の亀甲岩(A1)
一之坂の国道406号脇で、亀の甲羅のような形にひび割れた、モザイク模様の地
層が見られます。これは日影砂岩礫岩層より古い田之頭(たのかしら)泥岩層時
代に、泥と砂が交互に堆積し(互層)、その泥層が太陽に照らされて干し割れた時、
割れ目に砂が詰まって割れた当時の形が保たれたものです。亀甲岩と呼ばれてい
ます。

■ステゴドンゾウが闊歩
昭和61年、奥裾花のハシゴ沢で、ステゴドンゾウの左下顎骨の化石が発見されまし
た。ステゴドンゾウは400万年〜40万年前にインド、東南アジア、アフリカなどに栄え
た大型の象で、現在の象と共通の祖先をもちます。ステゴドンゾウの骨は大陸部と
地続きの温かい時期があつたことをうかがわせます。
シナノゾウと名付けられた信州のステゴドンゾウ化石は戸隠村、四賀村でも見つか
っています。

■うるし平人はナウマンゾウ狩人
現在分かっているいちばん古い鬼無里人は、今から3万年ほど前の水河期にうるし
平(A2)にいた狩猟民で、彼等は黒曜石の石器を今に遺しました。当時のうるし平一
帯はモミやツガやトウヒなど寒帯樹林に覆われ、噴火中の妙高山・焼山からの火山
灰が降りそそいでいました。その中で彼等はナウマンゾウやオオツノシカを狩りして
いました。

ナウマンゾウ

■肉と魚の縄文時代
財又(B2)の諏訪神社境内から、7000年前の縄文前期の土器石器が出土しました。村内の縄文遺跡は、裾花川の
川沿いに集中しており、狩猟と漁労(サケ・マス漁)による暮らしをしていたと推察されます。

■弥生・古墳はいまだ謎
一ノ坂(B2)で甕(かめ)形土器、和田沖(A2)や内裏屋敦(B1)で磨製石斧が発見されていますが、ほとんどが山地で
低湿地が少ないためか鬼無里では、いまだ明確な弥生遣跡が見つかっていません。
また古墳遺跡の伝承は「月夜の陵」のみで遺品等は、確認できません。
4世紀〜7世紀の空白は、遺跡が無いからなのでしょうか発見できていないだけなのでしょうか。

白髯神社&加茂神社 ■鬼無里遷都【これは伝承です】
白鳳時代、天武天皇は遷都を計画し、天皇13年(685)に、三野王
(みぬのおう)、小錦下釆女臣筑羅(こにしきしもうねめのおみつく
ら)らを信濃に遣わしました。鬼無里に赴いた一行は、裾花川畔の
高丘に使者館を設けて東京(ひがしきょう)と定め、加茂神社(写真左)
を勧請し、馬繋ぎ場所に三の字を刻んだ大石を置いたという伝承があ
ります。また、対岸を西京(にしきょう)と定め、ここには春日神社を祀
りました。
さらに鬼門の守護神として日影に猿田彦命(さるたひこのみこと)
を祭神とする白髯(しらひげ)神社(本殿は重要文化財)(写真左)を鎮
座させました。

■内裏屋敷の鉄滓(てっし)
縄文晩期からの遺跡である内裏屋敷遺跡(A2)からは9世紀〜10世紀の土師(はじ)式土器が出土し、鉄滓(鉄を鍛
えるとき落ちる屑)も見つかりました。鉄滓の出土は、製鉄場の存在を推測させます。製鉄が行なわれていたとした
なら誰が伝授したのでしょう。伝説では、内裏屋敷の主は紅葉です。彼女でしょうか。

■木那佐(きなさ)と書かれた昔
12世紀頃の鬼無里は、戸隠社領(顕光寺(けんこうじ)/現戸隠村)と小河荘(現小川村・中条村など)に挟まれてい
ました。長禄2年(1458)にまとめられた戸隠山顕光寺流記に「奉 常燈一灯、油料木那佐山一所」とあり、鬼無里の
一部が戸隠社に常灯明代として寄進されたことが分かります。字は異なりますが、これが古文書への「キナサ」の
地名初出です。当時の鬼無里は柳原荘です。

■木曽義仲と文珠堂
【これは文珠堂にまつわる伝承です/鬼無里では文殊ではなく
文珠と伝承されてきました】
寿永2年(1183)、北陸進攻で鬼無里を通過した木曽義仲は、守
仏の弘法太師作大聖知恵文珠菩薩像に一巻の軸をそえ、土倉
薬師堂に合祀して武運を祈りました。仏の加護を受けた義仲は
倶利伽羅峠の戦いなどに大勝利し、入京するや征夷大将軍に
任じられて旭将軍と呼ばれました。しかし元暦元年(1184)源頼
朝の軍が京へ攻め上り、義仲は栗津ケ原でこれを迎え討ちまし
たが、破れ、31歳の生涯を閉じました。
この時、義仲に従っていた仁科城主(現大町市)仁科盛遠(もり
とう)は、義仲の第二子力寿丸(りきじゅまる)を守って間道を抜
け、仁科に戻りました。盛遠は頼朝から力寿九を隠すため、土
倉に一堂を建てて力寿九を隠棲させ、義仲の文珠菩薩像を堂
に移して父の菩提を弔わせました。そして力寿丸が元服すると
自分の娘を娶らせ、信濃守義重と名乗らせて信濃源氏の跡目
を継がせました。
いま、土地の人は土倉文珠を日本三大文珠の一つ(他は京都
の切戸文殊、奥羽の亀岡文殊)と呼びます。
境内の朝□神社は、天思兼命(あめのおもいかねのみこと)と
木曽義仲を祀ります。

街道
土倉文珠堂

■竹田の児安様(こやすさま)(B2)【これは児安様にまつわる伝承です】
昔、長峯に木曽義仲の四天王の一人今井四郎兼平(かねひら)の城がありました。城主の奥方が懐妊したので、
新井に児安大明神を勧請して祀り、無事安産ができました。以来、安産の神として信奉されていますが、参道が
急坂な山道のため、明治26年、集落近くに里官が建てられました。
城主が児安神社を建立の際に傍らに植えたものと言われる目通り7メートルの長野県天然記念物新井のイチイ
は、村齢700年ともいわれて風格があります。

■五輪塔
五輪塔は中世の武士の供養塔・基標で、「地・水・火・風・空」の五大を「方形・円形・三角形・半月形・宝珠」でか
たどったものです。松巌寺(A2)に鬼女紅葉と家来の五輪塔、土倉集落に義仲親族の五輪塔と伝わるものが残
るほか 鬼無里村には五輪塔が数多くあります。鎌倉・室町時代、鬼無里には多くの武士がいたのでしょう。
ところで、「空」の宝珠形は欄干の上につける擬宝珠(ぎぼし)に似ています。だからでしょうか、鬼無里を旅する
と思わぬところにある「空」を見かけます。

■戦国時代の領主たち
古城公園(B3)がある標高925メートルの高台は、戦国時代小川城の家老大日方金吾直経(おびなたきんごな
おつね)の城(鬼無里城)がありました。大日方氏は武田方に属し、武田氏が減びた時は幼い大日方つく房が
家督を継いでおり、織田方の木曽義昌は、つく房が成人するまで鬼無里之郷を松本源丞と保科清助両人に預
ける旨の朱印状を天正10年(1573)6月に書いています。これが今に残る古文書で村名に「鬼無里」の字が使
われた最古のものです。義昌の約束は越後の上杉景勝の北信濃進攻で反故となり、鬼無里は上杉の支配下
に置かれました。

■江戸時代の鬼無里
江戸時代の鬼無里は、松代藩真田10万石の領地でした。真田信之が上田から松代に移封された際の知行日
録に、鬼無里村高千四拾六石三斗七升四合、日影村五百五十五石一斗九升と記されてありますから、当時す
でに稲作が広範囲に行なわれていたことが分かります。真田氏の統治は、明治維新まで統きました。

■鬼無里神社
創立は定かではありませんが、古くから産土神(うぶすながみ)の諏訪大明神として崇められ、武田信玄や大久
保長安が社領を寄進し、松代藩真田家も篤く崇敬した古社です。明治11年、鬼無里神社と名が改められました。

松巖寺 ■松巖寺
この地には鬼女紅葉の五輪塔を供養する鬼立山(きりゅうざん)
地蔵院がありましたが、元和元年(1615)村人たちは寺院を建て
て、開祖に北安曇郡小岩獄村(現穂高町)青原寺より松巌芳祝
(しょうがんぼうしゅく)禅師を迎え、師の名をいただいて松巌寺
としました。徳川幕府は寺領を寄進し、帰依した真田家は高40
石の諸役を免じています。
現在の本堂は、欄問を曹洞宗の開祖道元禅師一代記で飾り、
格天井(ごうてんじょう)には児玉果亭(こだまかてい)の高弟藤
原紫僊(しせん)が描いた花鳥画がはめられています。村内の木
食仏と鬼女紅葉伝説の解説は、旅人にはありがたいガイドです。

■鬼無里の青金引麻
標高がもっとも低い籠田(かごだ)で670m、役場は730mの鬼無里です。天候に大きく左右された江戸時代の
稲作りは大変なことでした。そこで人々は蕎麦(そば)、粟、稗を栽培して旱魃(かんばつ)や冷害に備え、また
木炭、麻糸、鬼無里紙の副業に励みました。
麻は文禄年間(安土桃山時代)頃から栽培され、鬼無里産麻糸は青金引麻の名で善光寺町・松代城下を初め
江戸へも売られて行きました。当初は麻そのものを売っていましたが、明和年間(1765)吉郎右衛門が江戸で麻
糸を加工して畳糸にする技法を覚えて帰り、里に製法を広めました。明治初年、寒冷積雪地の不利を逆に寒晒
(かんざら)しとして活用する手法が考案され、光沢のよい寒晒し畳糸は氷糸(こおりいと)の商標で高値売買さ
れたので、鬼無里村では95%の農家が麻を栽培し、麻全生産量の半分が、畳糸に加工されて出荷されました。

■鬼無里の九斎市
天和3年(1682)より鬼無里村町(A3)では毎月9回(1・2・8・11・18・21・22・28日)、九斎の市が開かれ、鬼無里
特産の麻や和紙や炭や生活物資が盛んに売買されました。それで昔の人は、買い物に行くことを市立と言いま]
した。

■木食山居と木食仏
木食とは、木の実や草だけを食べて修行する僧を言います。
その一人で仏像一万体彫刻の願をかけた山居は、延宝(1673
〜70)の頃虫倉山中や鬼無里村上平(A3)の岩窟に籠り、
毎日鉈(なた)一挺で仏像を刻み続けました。時折里へ下りて
托鉢を行ない、本尊のない家には鉈彫りの仏像を与えて仏法
を説きました。村人は親しみをこめて彼をサンキョさんと呼び、
慈しみに満ちた素朴なお顔の小さな山居仏を大切にしました。
『鬼無里村史』には山居は信州伊那の武士の生まれで、奉公
先で誤って子供を井戸に落して溺死させたことから、仏門に入
り、諸国行脚して当地に至ったと書かれています。後に大町九
日(現大町市九日町)弾誓寺(たんせいじ)に招かれて移り、
古希を前に即身仏となって入寂したと伝わります。

山居仏
寺島宗伴
和算書
■寺島数右衛門宗伴(てらしまかずうえもんそうはん)
明治5年(1872)の学制頒布で、数学に西洋数学が導入され、
この時からそれまでの日本の数学は和算と呼ばれるようにな
りました。和算は高次方程式や平方根を駆使して図形問題を
解析するなど、西洋数学に匹敵するレベルにありました。江
戸初期の和算家関孝和らが円周率を高い精度で算出してい
たことはよく知られるところです。
江戸時代は、各地で和算家がそれぞれの流派を開いていまし
たが、孝和の流れをくむ関流と激論を戦わせたのが最上流
(さいじょうりゅう)の会田安明(あいだやすあき)で、信州松代
藩では町田源左衛門正記らが安明から最上流を学びました。
 寛政6年(1794)鬼無里村萇畑(えらばたけ)に生れた寺島数
右衛門宗伴は、初め別家の庄屋寺島半右衛門陳玄(のぶは
る)より宮城流の和算を学び、後に松代に出向いて正記から
最上流を学び免状を得ました。宗伴はさらに謡(うたい)や折
形(おりかた)、生け花、礼法、囲碁などを習得し、これらを鬼
無里の人に教え、時には善光寺平、越後、松本平などに出向
いて教授しました。宗伴の門人は900人にもおよび、門人は宗
伴顕彰の碑を2つ建立しています。一つは、最初萇畑の上に
建てられて現在は一之瀬の旧鬼無里東小学校に建つ算子塚
(B2)、一つは松巌寺境内の五輪塔です。
宗伴は明治17年2月2日90歳で大往生し、遺骨は前述の五輪
塔と萇畑の生家墓地に納められました。
ところで天保13年(1842)宗伴一門が松巌寺観音堂に奉納した
算額には次のような問題と解答が記されています。解いてみま
せんか。(数値は現代のものに改めました)

「60万円を3年間貸しました。貸した人数はわかりませんが、貸
した金額は各人等しく、3年後に元利合計は105万1200円にな
りました。各人の年利の差は1割で、年利が同じ人はなく、各人
の年利の和は6割です。人数は何人になるでしょう。ただし、毎
年利息に利息を加える(複利計算)とします。」

■長野道開通
江戸時代、鬼無里と他村を結ぶ道は、幕府の政策もあって、崖を迂回したり、尾根や峠を越えるものでしたから、
明治時代には本格的な道路整備が始まりました。そして明治19年(1886)裾花川沿いに道路が開鑿(かいさく)さ
れると、麻、木炭など鬼無里の物品が駄馬で大量に県都長野へ運ばれるようになり、大正時代にはトラック輸送
も始まりました。この道が現在の国道406号です。

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