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鬼無里の年中行事
〜いまも残るむかしながらの行事や風習を「鬼無里の年中行事(鬼無里村教育委員会発刊)」からご紹介します〜
この本のご購入は鬼無里村教育委員会(電話026-256-3189)までお願いします。定価:1000円

元旦
 元旦は夜明け前に起きて氏神様に参拝しました。現在は「二年参り」として、大晦日から元旦にかけてお参りすることが多くなりました。
 年神様の前で家中そろってあいさつを交わし、朝食を食べました。お屠蘇(とそ)で祝う家もありました。元日の朝食は大きく分けると、雑煮かうどん類でした。うどん類は、うどん、麦切り、そば切りなどでした。また、ブリはさけなどの年取り魚、ご飯を食べる家もありました。昼食はありあわせのもので済ませ、夕食には雑煮、とろろ芋のごはんなどを食べました。
 【若水】年男は、日の出前に起きて「若水(わかみず)」をくみました。中区地区では、早朝、日の出前に起床して井戸水をくみました。寒い朝は水辺がすっかり凍結して滑るので、フンゴミをはいて氷を割ったりして若水を汲みました。初日の出る方向に向かい柏手を打ち新春の誓いをし、その水を手桶で持ち帰り初湯をわかし、お茶を入れました。
 【切り火】年男は若水をくんだ後、塩を炉にまいて清め、火打石でカチカチと「切り火」をして火をつけました。この火で神棚に灯明をつけ、湯を沸かしました。
【八丈】年神様(歳神様)や門松に八丈をつけました。これを「八丈様」「八丈飾り」と呼ぶところもあります。八丈は日本紙を二枚、二つ折りにし、二つ重ねる。上部を少し切込み、松の枝に結わえたものです。この八丈は三が日あるいは七日までつけておき、その後、大福帳にしたり、子供たちが書初めに使ったり、どんど焼き用に使いました。

松焼き
 15日夕方行われる「松焼き」は「どんど焼き」ともいい、正月最大の行事です。集落ごとに各家の門松やしめ縄など正月の飾り物を集め「巻立て」をして盛大に燃やし火を見守ります。これで正月の終わりとしました。
 15日の朝、正月の年神様、門松、しめ縄、書初め、ダルマなど飾り物を一切はずし、道陸神場へ運びます。上平地区では午後から巻立てを行い、心棒にはナラの木を立て、持ち寄った茅、豆の木、麻殻で巻き立てます。松を間に入れて、よく燃えるように立て、ダルマや古いお札も入れます。巻立ては高さが3メートルくらいの円錐形に作り、大きい集落ではもっと高いものになり、また二つ立てます。間にしめ縄を渡し、二見岩(夫婦岩)に見立てたりします。ダルマは外の目立つところに置き、一番上に御幣(ぬさ)をつけます。
【天筆(てんぴつ)】子供たちは、書初めを麻殻の先につけて燃やします。炎と煙に乗って、燃えながら高く上がっていくと、手が上がる(上手になる)といわれ、工夫して燃やします。

鳥追い
 15日の松焼きを前に、子供たちは「鳥追い」をしました。14日に麻稈や茅などを持ち寄って、雪の積もった畑の中に小屋を作りました。青年たちが手伝って、長い木を切ってきて大きな小屋にすることもありました。八丈を持ってきてオンベを作ることもありました。子供たちはここで、餅を焼いて食べ遊びました。夕方から翌朝にかけて、鳥追いをしました。岡地区では、道陸神場に集まり、麻殻で小屋を作り、中で大きな声で、「苗代の、隅々に、雄鶏、雌鳥、十三羽、羽が十色、目が一つ、でろでろ、ホーイ、ホーイ」と繰り返しながら、外に出て道陸神場の雪を踏み固めました。小屋は、その時燃やしてしまうところもありました。小屋の中へ鳥や害虫を追い込んで燃やすともいいます。

七草
 正月七日は「七草」。村内全域で今も行われ「七草粥」を作って食べます。これには二種類ありやわらかい粥のものと、炊き込みご飯のものとがあります。炊き込みご飯のものは「みそうず」といい、「おみそうず」「七草みそうず」「七草味噌」「七草飯」と呼ぶところもあります。七草粥にはセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、ズズナ、スズシロが言われますか、鬼無里ではそろわないため、七種の食品を使いました。家により違いますが、セリ、カブ、大根、人参、ごぼう、白菜、野沢菜、豆、米、餅、豆餅、アワ、キビ、ヒエ、昆布、ワカメ、味噌でこのうち、セリだけは必ず入れるものとされ、昔は雪を掘ってまで入れました。

トウドタテ
 正月三日は「トウドダテ(トウドは「田人」とも「頭人」とも当てるが、働く人、また雇い人も指しました。農作業につながりのある言葉ですが、今はあまり使われない。)を行いました。朝赤飯(小豆飯)を炊き、カマドの神様に供えました。また握り飯を三個作り、茅(かや)の穂を立て、また麻稈(あさわら)で「べろべろ(20cmほどの長さの稈を直角に折ったもの)」を作って立て、箕に入れ、釜のフタの上に供えました。この握り飯を馬に食べさせるところもありました。

節分
 2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。
【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。
【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。

やしょうま(3月15日)
3月15日はお釈迦様が亡くなった日、涅槃会(ねはんえ)です。写真のような「やしょうま」を作って仏様に供え、食べる風習が今も残っております。やしょうまは、米の粉をこねてふかし、色をつけ、ひょうたん、繭、動物、うず巻きなどの形物を作り金太郎飴のような長い形にします。それを薄く切ってさとう醤油などをつけて食べます。時間が経ったものは火にあぶって食べます。
14日に作り、15日の朝、仏様に供えます。昔は各家で作ったものを交換しあい、子どもたちはそれをもらって歩いて楽しんだそうです。


お薬師様(4月8日)
 4月8日は「お薬師様の日」。ぼた餅や団子を作り、村内のお薬師様のお堂にお参りをします。
団子はそば粉で作るところが多かったが、米粉もあった。ワラで包んで供えるのも広い地区でしていた。
 お薬師様は目の病気を治すといわれ、四角面(東町)や西京に有名なお堂があった。東町では今も縁日がある。

七夕(7月7日)
 七夕は以前は月遅れの8月7日だったが、最近は7月に行う家も多くなった。鬼無里で竹に短冊を飾るのは、比較的新しいこととされる。七夕様に着物を着せる、貸すといって、男女の着物をつるすのは昔から行っていた。
<東京>の老人の戦前の想い出では、女性が髪をすく週間も記している。
 「女の人たちが誘い合って、川の流れで髪をきれいにすき上げて、川から引き上げてくる様は、清楚そのものであります。そして日頃あまり出してきることのない上等の着物を、タンスから取り出して、物干しに広げて、七夕様に着てもらいます。着物の観賞などしながら、よもや話に花が咲き、なんとも優雅なものでした。これも戦争が深みに落ち込んでゆくとともに昭和15年頃から見られなくなりました。
 つるす着物は子供や若い者のもの、男衆と女衆の一番いい着物などいろいろ言う。また、「着物の虫干し」とする家もあった。今は行わないがたまに行う家もある。
竹に短冊をつけて飾るのは、鬼無里では昭和35年頃から始ったという。子供のいる家だけで行わない家も多い。短冊は後で川に流した。


祇園祭(7月15日)
 7月15日は祇園祭。津島牛頭天王(つしまごずてんのう)の祭りで、市場の祭典、また農業の神様でもあります。鬼無里では町で15日から21日まで盛大に催されます。昔は「鬼無里千石の祭典」といわれ、鬼無里中から人が集まりました。
 15日には里宮をかついで神主を先頭に、町の氏子がそろって神楽ばやしも賑やかに、町四つ角を下に下り、郵便局近くに鎮座します。ここで20日まで、皆が参拝する。参拝には野菜、果物なども供えられ子供たちは灯篭に思い思いの絵をかいて奉納し、健康と学業の向上を祈願します。商店は商売繁盛を農家は五穀の豊穣を祈ります。昔は大人は俳句を奉納してお宮に灯をつけてかかげました。また、大人の神輿一台が出ましたが、今は子供神輿が2台出ます。
 平成12年まで、祭りの期間中近郷では珍しく大きい花火が打ち上げられ、隣村からも見物人で賑わいました。 21日には天王上がり(天王上げ)をして祭りが終わります。
 

お盆行事(8月13日〜16日)
 お盆は今は8月13日から16日の間行われますが、以前鬼無里では20日から行う「二十日盆」でした。これは鬼無里で麻の収穫が八月中旬まで続いたので20日からが都合がよかったからです。
 「うら盆」
 8月1日を「うら盆(盂蘭盆)」と呼んで、お盆の始まりとするところが多い。またこの日、「うら盆焼餅」といって「おやき」を作るところもありました。「おやき」は新麦粉で作り、初採りのナスをあんにして仏様に供えました。(お盆全体をうら盆とよぶこともあります。)
 「盆花」
 お盆には盆花を飾ります。だいたい決っていて、キキョウ、アオイ(アオエ、オミナエシ)、ミソハギナド、お盆を前に男の子が山へとりに行きました。三部落地区ではキキョウ、アオエを採りに小学校の高学年が上級生の指導で大沢の茅場へ行きました。麦わらを巻いて背負い、麦粉のせんべい、おやきなどの食べ物を持っていき、麦わらを焚いて一夜を明かし、夜が明けると一斉に山の中をかけまわって花をとり、集合場所に集まって帰りました。小遣い稼ぎにとりに行かなかった家にも配りました。
 「盆棚」
 盆の入りに、仏壇とは別に座敷か茶の間に盆棚を作ります。上平地区ではご先祖様がお客に来るからといって、座敷へ箱などを段々に重ね、その上に布を敷いて、ご本尊様から過去帳、位牌などを上段に飾りました。下の段に野菜を供え、提灯、盆花を飾りスイカやお菓子を供えます。また、仏さんの送り迎え用にとキュウリで馬を、ナスで牛を作って供えます。馬で早くおいで、帰りは牛でゆっくり帰るようにという意味があるそうです。
 「迎え火」
 お盆の入りの夕方、迎え火を焚いて墓地からご先祖様を迎えます。この日またはその前に、草刈など墓掃除をします。峯地区では子供たちが近所の子供と、棒の先に空き缶をつけ、中にカンバの皮を入れて、お墓に仏様を迎えに行きました。カンバに火をつけ燃やしながら「じいさん、ばあさん、この火の灯りでおでやれ、おでやれ」と唱えながら家に帰り、カンバの火でお灯明に火をつけてお参りをしました。
 「盆の食事」
 お盆の間はごちそうを作って盆棚に供え、家中で食べるが、料理は大抵決っており、てんぷら、赤飯、おやき、団子はほとんどの家で作りました。
 山大地区では、お盆の時、各自のお膳を全部洗って(これは子供の仕事)、柳の皮をむいて盆箸を作り、お膳につけて食事をしました。もちろん夜はてんぷらにお赤飯でした。それが何よりのごちそうでした。13日の夕食はてんぷらに赤飯・黒飯が多かった。このときは、家族全員、盆棚の前で食べました。14日には「おやき」を作りました。小豆あんのものが欠かせませんでした。16日に作る家も多かった。白いごはんなど、ごちそうは三食とも盆棚に必ず供えました。
 以前は、ガシャッパ(カシワの葉、ヤシャガシャッパ)にごはんを三つ盛り(四、五つ盛り)にして供えるところもありました。またミソハギの軸で箸を作る所もありました
 「新盆見舞い」
 この一年間に死者が出た家は新盆で、親戚や知人、隣近所は「新盆見舞い」にいきます。新盆の家には、事前にしんせきなどから提灯(盆灯篭)が届けられる。いつもより盆棚を大きく飾り、見舞い客を迎えます。盆見舞いとも言います。上平地区では、新しく仏様になった親類の家へ線香、香典、提灯等を供えてお悔やみを申し上げる。盆見舞いに来てくれた人にお茶やお菓子を振舞って、ゆっくり仏様をしのんで話をします。盆提灯は古くは白張り提灯とされたが、今は岐阜提灯など立派なものが多い。贈られた提灯は毎年出して飾るが、古くなると焼いてしまう。
 「盆踊り」
 踊りは昔からやっていて、一時は大変盛んでした。白馬村や小川村からも若い衆が踊りに来て、ロマンスも生まれたといいます。町地区では昭和12年の日中戦争で中止していたが、昭和16年に青年有志で再開しました。松巖寺の庭で踊り始めて、拡声器を使ってのど自慢が行われ、大賑わいでしたが、当局の指導で毎晩11時で解散させられました。しかしその帰りは若い男女の楽しい時間となったようです。また、戦時中の盆踊りは珍しく、隣村の若者たちも大勢来て踊ったり遊んだりしました。後に場所は学校校庭に移り、現在は各地区ごとになってつづいています。盆踊りは夜明かしが多かったようです。この盆踊りによって若い男女間のロマンスが生まれ、結ばれた人たちも多かったようです。
 盆踊りの唄は、昔は「大町甚句」などがあったが、戦後に「裾花民謡」ができて人気になり、「炭鉱節」「木曽節」もよく踊られます。裾花民謡は運動会にも踊られます。平成になってから13日と14日は各地区で踊り、15日は上里・中央・両京の学校庭に集まって踊るようになった。昔ほど盛大ではないが、今も村人の楽しい夏の行事です。
 「送り盆」
 お盆の期間に、お寺では施餓鬼法要があり、お参りにいきます。16日は送り盆で、送り火を焚き、墓参りをします。この日には盆棚を片付け、夕方に麦ワラ、カンバなどを庭先または門で焚き、盆を送ります。墓地でも火を焚くところもあります。送り盆のときは、「じいさん、ばあさん、この煙にのって、おいきやーれ」「じいさんばあさん、この火のあかりでおいきやーれ、おいきやーれ」などと唱えます。お墓には必ず二人以上でお参りに行くようにしている地区もあります。線香を立てて、団子などを備えてお参りをし、これでお盆の行事は終わります。

御射山祭り(みさやままつり)
 8月26日〜27日は御射山祭りです。「御射山様」とも呼びます。一般家庭では茅(かや)の幹で箸を作り、赤飯を食べます。諏訪神社のお宮では祭りがあります。
 御射山様には茅がつきもので、茅(尾花、薄=ススキ)の穂を飾り、茅の箸で食事をします。茅を使うのは、昔流行病があり、悪病除けになるからといいます。この箸で食べると疫病にかからないとされます。御射山様は農作物の神だともいいます。箸は幹の青い(白い)部分を使い、赤いところは使わないので青箸とも読んだ。朝食だけ使ったところもあリました。赤飯は「こわめし」「小豆飯」とするところもありました。
峯地区では、茅の穂12本を麻で結んで神前に供え、赤飯も供えて、茅の箸で食べました。
松原地区では、ススキがでてきた時、青箸といって、茅の穂は外の木に飾り、太いところで箸を作り、神様に上げてから皆で箸を使い食べました。
鬼無里には財又の諏訪神社、町の鬼無里神社、西京の春日神社が諏訪系で、それぞれお祭りをします。

十五夜
旧暦8月15日は新暦で9月中旬から十月初めころになります。仲秋の名月で、満月のお月様にお供えをし豊作を祈ります。餅や農作物を盗んでもよいといわれ、こどもたちは楽しみました。
 上平地区では、十五夜には農作物の収穫を祝い、ぼた餅を作り、葉つき大根を二本そえてイモや枝豆を供え、ススキを飾って、縁側などの月の見えるところへ置きました。月に供えたぼた餅は、子供たちが人に知られないように盗んで歩きました。盗まれる家もそれを歓迎しました。盗む際には、せんげ(水路)をまたいではいけないとされ、せんげをまたがずに盗めば長者になれると言いました。

とうせんぼう
 8月31日から9月1日にかけては、いくつかの行事が重なる節目の日でした。中でも二百十日の「とうせんぼう」は、広い地域で行われました。
 9月1日は二百十日で、台風がよく来る特別な日、荒れ日といわれます。8月31日を「二百十日前夜祭」とも言いました。「とうせんぼう」は、台風などの大風を断ち切って通さないのだ、といわれます。また「唐船亡」などと当てて、昔の蒙古襲来故事を言う人もいます。神社の祭りもありますが、二百十日にちなんだものが多い。
 西京地区では、前の晩、明日二百十日に嵐がこないように、無事に過せるように祈り、お祭りをします。虚空蔵様、秋葉様、琴平様、氏神様それぞれへ、ローソクを立てお神酒を供えて、前夜祭を村中で行います。獅子舞も行われます。
 松原地区では、松原神社の例祭は、台風被害の無いよう祈願祭を行い、前夜祭には小一夜山へお参りしました。この日は、餅、赤飯、おはぎなどを作って神に供えました。二百十日がおだやかならば、「升はいらない、箕ではかれ」と言うこともありました。

お九日(おくんち)
 旧暦9月9日、19日、29日を「お九日」といい、荒れ日とされました。新暦では10月上旬から11月ころで、霜がくる時期。各家庭で平穏無事を祈りました。
 天神地区ではお九日は霜がきたり、早い年は初雪が舞ったりと荒れ日とされ、各家では仏壇や神棚にお神酒を供え平穏を祈りました。昭和20年ころまで行われていました。餅や団子を作って神棚に供えて食べたところが多かった。魚を食べるところもありました。

薬師様
 10月8日は「薬師様の日」。近くのお薬師様にお参りする。鬼無里では四角面(東町)と西京のものがよく知られる。3月9日、4月8日にも行います。
 蓬平地区では、「目団子」といって大きな団子を作り、薬師様にお参りして目の病いを払うお祈りをしました。西京地区では、昔は目を守っていただくように「目団子」といって、そば粉で3,4センチほどの団子を作り、わらで作ったお椀に2個入れてお供えしました。目団子は「八日団子」ともいい、そば粉や米の粉で作るところは鬼無里村内に広くありました。ワラヅドッコに包むところもあった。現在も新倉地区などで行っていますが、ここでは団子は12個包みます。

十日夜(とおかんや)
 旧暦10月10日は十日夜。新暦では11月10日、または15日に行うところが多い。十日夜は一般的に「かかしあげ」とも呼ばれ、田畑の仕事をおしまいにする日です。
 上平地区では、十日夜に餅をついて、田んぼのかかしを全部持ち帰り、また来年も頼みますとお月様に餅を供えました。
 供えるのはお月様の他、恵比寿様にも供えました。餅は新米でつき、白米を供えるところもあり、収穫祝いの性格もありました。ぼた餅を作り、芋汁を食べるところもありました。「稲の月見」とも言われました。現在はかかしを立てることもなくなり、十日夜の行事は少なくなりました。

恵比寿講
 11月20日は恵比寿講。恵比寿様にご飯と頭つきの魚を供えてお参りした。村内の商店は売り出しを行います。長野へ冬物の買い物に行き、花火を見物する人も多かった。以前は長野の西宮神社に代参に行き、お札を各家に配り、恵比寿棚に貼りました。新米の白いご飯にサンマ、トロロ汁のごちそうを食べるのが、農業の収穫祝いの気持ちもありました。
 土倉地区では、西宮神社のお札を恵比寿棚にまつり、魚と野菜料理、ご飯を供えて祝いました。
 峯地区の老人の思い出では、「親父か兄が朝暗いうちに、米、炭を馬につけて、長野市桜枝町周辺の問屋へ売りに行き、帰りに家族全員に衣類、履物、菓子などを買って夕方帰ってくるのが楽しみだった。」
 新倉地区では、恵比寿講の講員が当番の家に集まって、お神酒、魚、餅を供えてお参りする。その後、持ち寄った不要品を出してセリにかけ、競売会をして楽しんみました。
 恵比寿講の時期は雪が舞い始め、大根取り、焚き物寄せなどの冬支度が忙しく、秋の仕事はこの日までにと区切りの日でもありました。現在でも各家庭で行事をする人は多いようです。

秋振る舞い
 11月から12月にかけて、「秋振る舞い」をしました。これは秋の収穫祝いと慰労会の性格のもので各家で行いました。呼び名は色々で「秋振る舞い」が一般的ですが、「秋ぎょ」「秋にょ」「秋客」「秋行」「秋泊り客」「神農よび」「大番客」などが言われました。親類や嫁いだ者、近所の人も呼び、泊りがけで来るので、晩は餅つき、朝は芋汁やめん類などのごちそうをしました。盛大な宴会になり収穫を祝い、日ごろの労をねぎらって交流しました。
 上平地区では、時期は12月20日前後。昔は麻糸作りのため、正月は旧正月だった。冬麻といって11月末から12月20日ころまで麻掻(おかき)をして、一応麻掻を止めて冬囲いをして、麻糸(畳糸)作りに入る前に秋客をしました。

冬至
 1年で最も日が短い12月22日ころが冬至です。この日にカボチャを食べると風邪をひかない、病気にならないと言われます。
 冬至は特に行事はなかったが、季節の節目としていろいろと言うことがありました。「冬至冬なか、寒は雪なか」「冬至の神様は犬が大嫌い」それで冬至が暦の戌の日に近いか遠いかで、遅いと凶作になるなどと言う人もいました。以前はカボチャを食べるのは年を越してはいけないと言われ、冬至が食べ納めでした。しかし今は保存が方法がよくなり、一年中売られているので、あまり気を使わずに食べています。

年末の行事
【すすはき】年末の大掃除は「すすはき」で、一年中の家の汚れをきれいにしました。「すす払い」とも言いました。囲炉裏の煙で家中に煤(すす)がたまるので、これをきれいに掃除しました。大掃除の期日は12月13日か27日とするところが多かった。ふだん掃除のできなかった神棚や仏壇なども掃除しました。
【餅つき】正月用の餅つきは、12月の末に行います。28日か30日につきますが、29日は「苦餅」といって避ける傾向がありました。ずっと昔は元日や1月についたとこもあったといいます。
【まるめあげ】年末には「まるめあげ」といって、おやきを作って食べました。日はいろいろで12月27日から31日までで、地区や家により違った。
【松飾り】松飾りは、12月31日に行います。門松、年神様などに松としめ飾りをつける。裾花地区や天神地区では松でなく柳などを使うため、「正月飾り」と呼んだりもします。
【年取り】12月31日の大晦日は、遅めに年取りをします。ごちそうを食べゆっくり過ごします。夜中まで起きていて、除夜の鐘を聞いて二年参りに行く人もいます。