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川中島古戦場史跡公園案内


逆槐(さかさえんじゅ)

永禄4年(1561)川中島の戦いの際に土塁の土留め用に自生の槐を杭として、根を上に打ち込んだものが芽を出し、400年を経て巨木に成長したと伝えられています。

三太刀七太刀の跡

永禄4年(1561)9月10日、謙信は武田の本陣にただ一騎で駆け寄り、馬上より太刀を振り下ろした。信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の傷が7カ所あったという。この一騎打ちの跡が「三太刀七太刀の跡」と伝えられています。地元の人が大正年間に建てたようです。

執念の石

永禄4年(1561)9月10日、信玄と謙信の一騎打ちの際、謙信を取り逃がした武田方の原大隅は、無念やるかたなく傍らにあったこの石を槍で突き通したと伝えられています。

川中島合戦をしのぶ歌碑

歌碑:表(写真左)
 跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ

歌碑:裏(写真右)
 月影の入にし後も ほととぎす ひとこえ残す 小島田の里

作者の田中月亀は、小島田に生まれ、松代藩主真田幸教に仕えた画家で歌道にも長じていました。表の歌は、川中島の激戦の様子をしのんだ月亀の歌で、裏は、亀守と号した月亀の子が合戦の終わった後のここ八幡原一帯の情景を歌ったものです。

信玄・謙信一騎打ちの像

武田方の軍学書『甲陽軍鑑』に記された「武田本陣で床几に腰掛ける信玄めがけて上杉謙信が馬上から太刀で切りつけ、信玄がそれを軍配で受ける」という永禄4年(1561)9月10日の一場面を銅像で表現したものです。

八幡社旧社殿

この小さな社殿は、山本勘助が千曲川に沿って海津城を築く際に、水除け八幡として勧請した社と伝えられています。




首塚

永禄4年(1561)9月10日の激戦の後、武田方の高坂弾正が敵味方の区別なく死骸や散乱した武具を集めて埋葬した跡が首塚と言われています。現在、八幡社境内の「一条塚」と史跡公園南西隅にある「千人塚」の2カ所が残っています。

徳本塚

江戸時代後期、各地に念仏を布教しに歩いた徳本上人は、晩年の文化13年に信濃を訪れました。すでに念仏行者として名声を集めていた徳本上人のもとには連日、上人の独特の書体で書かれた六字名号のお札を貰うために沢山の人たちが集まり、そこで与えられたお札の数は18万枚以上にものぼりました。上人はまた、各地で求めに応じ上人の六字名号を刻んだ石碑の開眼式も行っています。公園に立っている徳本塚も上人の手によって開眼されたことが記録に見られます。恐らくは、川中島合戦で散っていった多くの戦死者の供養として建てられたのでしょう。元は川中島の戦いで亡くなった雑兵たちの遺体を埋めたとされる首塚の上に立っていたといわれています。

八幡社の古井戸

八幡社の境内の西北の隅にある井戸には、川中島合戦の際に戦死した何千という人たちの怨念がこもっているといわれます。この井戸をのぞき込むと、兵士たちの助けを求める声が聞こえたり、亡者の姿が現れ、のぞき込んだ人を井戸に引きずり込んでしまうと言い伝えられています。

野外彫刻ながのミュージアム

川中島古戦場史跡公園には3体の野外彫刻が設置されています。

若きカフカス人
(特別記念出品)
ブロンズ製
昭和56年設置
作者:中原 悌二郎
CLOUD17(暈)
アルミニウム製
昭和57年設置
作者:建畠 覚造
演技者
ブロンズ製
昭和58年設置
作者:吉田 芳夫
   

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