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松代城の歴史

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  • 更新日:2011年10月1日更新

松代城跡の環境整備

 松代城は戦国時代に築城されて明治時代まで存続した城で、300年以上の間北信濃の歴史における拠点的な場所でした。廃城後は建物が壊されたために、城としての景観を大きく失っていましたが、長野市はこの貴重な文化遺産を後世に伝えるため、平成の大普請(環境整備工事)を行い、城跡を修理・復元しました。よみがえった城門や木橋、石垣、土塁、堀などは江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されています。

1、松代城の歴史

 永禄3年(1560)、甲斐の武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」(1553?1564)の際に築城した「海津城」が松代城のはじまりとされています。その後、戦国の動乱とともに城主が移り変わり、森忠政が城主となった慶長5年(1600)に「待城」と改名されました。次の松平忠輝の時に「松城」と呼ばれるようになり、その後、元和8年(1622)に真田信之が上田から移封され、真田3代目藩主幸道のときに幕命により「松代城」と改名されました。
  松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っています。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許されました。また、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっています。こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となりました。
  明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また御殿が存在した花の丸は、同6年(1873)に放火され焼失してしまいました。松代城の建物で現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)などわずかです。 昭和56年(1981)、本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されました。

江戸時代末期の松代城の縄張り
 ↑江戸時代末期の松代城の縄張り



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