更新日:2024年9月6日
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広報ながのに掲載している市長エッセーのバックナンバーです
大きな椅子が家にある。わが家自慢の椅子ではあるものの、私がゆっくり座ったのはいつだったか、思い出せない。背もたれが高いので、人が座っていても椅子の裏側から見れば、その姿は見えないほど。座面が低くクッションが厚いので、一人掛けのソファといった方がいいのかもしれない。
この椅子は17年前、最初の子が生まれた時に手に入れた。赤ん坊を抱いてゆっくり座れる椅子が欲しいと思ったからだ。
これまで北欧諸国を何度も訪問してきた中で、宿泊先などに置かれている古い家具に魅了されてきた。製作から100年を超えるような、いわゆるアンティークといわれる家具の持つ佇(たたず)まいから、人の暮らしや営みが刻み込まれた歴史を感じるのが心地良かった。また、古い家具を大切に使い続ける文化にも感銘を受けた。
わが家の椅子は、デンマークで1950年に製作されたものだというが、買った時にはクッションや生地はしっかり修復されていた。この椅子が自宅にきてからは、リビングの真ん中にずっと鎮座している。重いから移動させるのに苦労するし、その大きさから置き場所はそこしかない。
振り返れば子どもたちが赤ん坊の頃は、夫婦でよく使っていた。子どもを寝かしつけるのには抜群の座り心地だったからだ。子どもを胸に抱いて座れば、椅子の肘掛けがその重さを受け止め、私の体重も大きな背もたれが受け止めてくれた。不思議なもので、この椅子はなぜかあっという間に親子をそろって眠りにつかせてくれた。
今は、椅子の大きな背もたれは、大きくなった子ども自身を受け止めている。テレビやゲーム、読書のために、入れ替わりながら、いつも子どもたちの誰かが座っていて、私はもちろん、妻でさえゆっくり座ることができない。
いつか子どもたちが成長とともに家を離れる時がくるまでは、思い思いに使ってもらえばいい。童謡の「大きな古時計」のように、うれしいことも悲しいことも、みな知っている椅子になってほしいから。
ひと雨ごとに青くなる。そんな表現がふさわしい、新緑まばゆい季節である。青に勢いと輝きが増していくこの季節をしっかり実感できるのが、長野市の大きな魅力の一つだろう。自然の中に身を置き、植物が豊かな水を得て、生き生きと伸びていく姿を見ていると、それらから得られる元気はとても大きいことに気付く。
私が山菜好きであることは、以前エッセーで書いた。この春も山菜の王様といわれるタラの芽を天ぷらにしてたくさん食べた。うちの子は、やや繊細なコシアブラの方が好みと言うが、いずれにせよ、この春も、家族みんなが心や胃袋を満たした。
さて、植物から教えられることもある。当然だが、環境により、同じ植物でも成長の早さには違いがある。日の当たる場所、当たらない場所、標高の高いところ、低いところなど。それぞれの場所で成長しているのだから、色や形も違ってくる。
子育てについて夫婦で悩んでいた時、このことを見て、子どもの育ちの進み方にも違いがあって当然ではないかと思え、スッと肩の力が抜けた。なぜなら、社会では年齢に応じた保育や教育環境が用意されてはいるが、そのことがかえって、適齢期を迎える子どもの成長を前に、私たちには焦りとなってしまっていたからだ。
少し前、テレビで植物学者の牧野富太郎がモデルとなったドラマを放送していた。「雑草という草はない。」は牧野氏が残した言葉として知られている。彼は1,500種を超える植物を命名したとされる人物だ。見た目は似ていても、一つ一つには違いがあるので、よく観察し、それぞれの特性を知ることが大切だと教えてくれる言葉だ。人も自然の一部ということに変わりないのだから、子ども一人一人の個性を尊重しながら育ちを待つ気持ちを持ちたいと思う。そして、子どもの成長は子ども自身に任せる。あとは、たっぷりの水でも用意しておこう。
雨の後に成長する「青(植物)」を眺めながら、改めてそう感じた。
マラソン大会は川のようだ。大勢のランナーがゴールを目指して走る光景は、流れが生まれる源頭から42,195キロメートル先の河口まで続く大河のように思える。
過日、今回で10回目のエントリーとなった長野マラソンに参加した。私にとってこの大会を走ることは、新しい年度を快く迎える気持ちになれる、ひとつの節目と捉えている。川の水がいずれ海に流れ出るように、ランナーは南長野運動公園にあるオリンピックスタジアムという河口を目指して走る。それぞれのランナーと同じように、大河の一滴である私にも、もちろん目標があった。「河口であるゴールまでに4時間以内にたどり着く」。そのことを強く心に誓っていた。
スタート地点の長野運動公園は、今にもあふれそうなほどの高揚感に包まれていた。スタート合図後、堰(せき)を切ったように勢いよく流れはじめた川は、川下に向かいながら時間の経過とともにしだいに細く長くなっていく。私も一定のペースを失わぬよう、川の流れに身を任せたのだが、やがて足に疲労を感じてくると流れから遅れはじめた。「遅れてたまるか。でも、キツイ」。自分の心に向き合うほど、きつくなるのは不思議だが、その気持ちを紛らわせてくれたのが沿道の声援だった。河口(ゴール)に向かって流れていると、右や左の岸から、その流れの一滴一滴に絶え間なく送られる声援が聞こえた。それは、ランナー一人一人の魂に届けとの願いが込められた熱いエールだった。見ず知らずの人たちだとしても、構うことなく最大の声を届ける。その温かい心が、くたびれて止まりそうな緩い流れを後押ししてくれた。しだいに、意識は遠のき、足はひきつり、体がしびれはじめたが、あの声援こそがくじけそうな心を支えてくれた。
「ああ、もう走らなくていい。」というのがゴール直後の思いだったが、今は、川の流れとなって走りながら見た数々の美しい景色を、また見たいと願っている。
先日、長野市農業青年協議会の皆さんとの懇談会があった。会員の皆さんが持ち寄った、野菜を使った料理に舌鼓を打ちながら、「やっぱり野菜が好きだなあ」と実感。時折、子どもたちにせがまれてバイキング形式の飲食店に行く。私は、そこでも野菜サラダをモリモリ食べる。特に自分がヘルシー志向だとは思わないが、野菜の甘みや苦味、歯応えを感じるのが好きだからである。
ところで、最近、頻繁に食べる野菜がある。菊芋だ。菊芋は、市内において地域の特産品にしようと熱心に栽培している地区があり、そこでは焼酎やみそ漬けなどの商品化に取り組んでいる。私は菊芋をアチャールにして食べる。アチャールは、玉ねぎやにんじん、なす、きゅうりなど、さまざまな野菜をスパイスやオイルなどで漬け込んだピクルス(漬物)で、インドやネパールの食卓には欠かせない食べ物とのことである。市内のある飲食店で提供された菊芋のアチャールが驚くほどおいしかったことがきっかけで、自己流の菊芋アチャール作りが始まった。菊芋を薄くスライスし、ターメリック、チリ、パプリカの各パウダーとともにボウルであえて冷蔵庫に1時間置く。その後、ひまわり油をひいたフライパンにニンニクのスライスを入れて加熱し、その油を菊芋になじませて出来上がり。スパイスの香りが食欲をそそり、菊芋のシャキシャキした歯応えがたまらず、箸が進むこと間違いなしの一品となる。菊芋には水溶性の食物繊維が多く含まれ、食べると健康になれそうな気持ちにもなる。…と書くと、私がヘルシー志向だと思われても仕方ない。とにかく、最近はこれをよく食べる。どうか皆さんもお試しあれ。そして、感想など(*)を寄せていただければと思う。共にある、暮らしの中で、地域で採れる野菜のおいしさ、食の幸せを共有したい。
「地域で採れる野菜や果物のおいしさを味わう」ことは、長野市で暮らす魅力の一つでもあります。広報ながの5月号掲載の市長エッセーで取り上げた「菊芋」について、知っていることや、食べた感想、レシピなどをお聞きするためLINEを利用したアンケートを実施しました。結果は次のとおりです。アンケートにご協力いただき、ありがとうございました。
自分や家族の行政手続きのために自宅近くの支所に行くと、いつも決まって緊張する。「手続きはスムーズにいくだろうか。必要書類はそろっているだろうか。」と身構えてしまう。窓口で応対する職員よりも、間違いなく体温が高いといつも思う。そこではなぜか汗ばんでしまうのだ。果たして私だけがそうなのだろうか。市民の皆さんが同じような気持ちなのであれば、市役所をもっと気軽に寄れる場所にできないか。市役所は、市民の皆さんのもののはず。
そこで、アート(美術、芸術)の力を借りてはどうかと考えてみた。アートの活用例として、ロビーや廊下の壁に絵画が飾ってある病院がある。アートは、患者やその家族に癒やしや元気を与え、職員の快適な職場環境づくりにもつながるという。ならば、それは市役所も同じだろうと、庁舎の殺風景な壁面を活用し、絵画などのアート作品を展示することで、市民の皆さんが緊張せずに来庁できる居心地の良い場所にしたいと思った。
コンセプトは、「市役所をまるごと美術館に」。
実は、市では絵画など多くのアート作品を保管している。その大部分は大切に保管しているため普段は見ることはないが、市ゆかりの作家から寄贈を受けた作品の展示にもつなげていきたい。
ところで過日、東京藝術大学の日比野克彦学長の講演を聴いた。同大学などでは、「文化的処方」の研究をしているという。これは、健康の維持・改善や幸福感増進のため、医療や福祉にアートを取り入れる手法とのこと。イギリスでは、さまざまな課題を抱える人たちの心の癒やしの場や、認知症の処方の場として美術館を活用しているそうだ。また「文化的処方」により医療費などの削減や、その従事者の勤務の質の向上といった効果があるという。
多くの人の心の状態をよくする可能性に期待し、庁舎内にアート作品を展示することで、地域のよりどころとして、幸せをつくる場所にしていきたい。そうすれば、もう緊張して汗ばむこともないのかもしれない。
石川県輪島市の広報紙、「広報わじま」。令和元年10月号表紙の写真には、地元の中学生と一緒に私もいる。過去のバックナンバーは輪島市のホームページで今も閲覧することができる。公益財団法人日本オリンピック委員会が開催した「オリンピック教室」のひとコマであり、その内容が同月号に掲載されている。「オリンピック教室」とは、オリンピック出場経験のあるアスリートが教師役となり、自身のさまざまな経験を通してオリンピックの価値などを伝えるとともに、この価値が選手だけのものではなく、多くの人と共有し日常生活にも活(い)かすことができることを伝える授業である。このとき北陸地方で初めて開催された。
人生初の能登半島、輪島市への訪問と、これから出会える若者たちのことを考えると心が弾んだ。前日の陽が沈んだ頃に輪島市に到着し、地魚を楽しめる店で、おいしい刺身などに舌鼓を打った。翌朝、高揚感からか早く目が覚めたので、宿泊先から浜辺に向かってランニングに出かけた。輪島塗の工房を横目に、朝日に照らされた美しい街並みや港、海や浜辺を眺めながら、また、地元の人々の暮らしに思いをはせながら1時間ほど走った。
授業は中学生の積極的な参加により、にぎやかで楽しく、思い出深いものとなった。令和元年10月号の紙面の中ほどには、純粋な瞳で授業を受けてくれたクラスの生徒全員が写っている。あれから4年が過ぎたから、今は高校3年生の年代の彼ら。果たして彼らは皆、無事でいるだろうか。案じてみても安否の確認など取れようもなく、もどかしさで胸が痛い。振り返ると、本市が大きな台風災害で忘れ得ぬ悲しい記憶を心に刻むことになった時期は、輪島市民の手元に「広報わじま」10月号が届いた頃と重なる。
誰しも災害によるつらい思いはしたくない。だからこそ、被災者に寄り添った支援とは何か、と自問する。オリンピックの価値の一つである「フレンドシップ(友愛)」は、支え合う、仲間と協力するといった意味を持つ。オリンピック開催の地からこの思いを被災地に届けたい。
「雪の結晶の形は?」と聞かれて、まず頭に思い浮かべるのは、六角形を模した形かもしれない。結晶の形がさまざまであることは、よく知られているところだが、その数はみぞれやひょうなども含めて121種類あると言われている。空からの贈りものである雪の形がこれだけあるのだから、雪の降る日に、手のひらをかざして、受け止めた雪の結晶を観察してみるのは、どれだけ楽しいことだろうか。世界中のあちこちでさまざまな雪を見てきた私にとっても、いまだに結晶の観察は面白い。
その一方、スキー選手としての経験を思い起こすと、大会当日は雪が降らないことを祈っていた。大会当日の朝、宿泊先の窓から外に目をやった時、雪が降っていたり、新雪が積もったりしていると「きついなぁ」とナーバスになったものだった。なぜか?答えは、新雪は滑らないからである。簡単に説明すると、新雪は結晶の形がはっきりしている。結晶は角が尖っているのでスキー板の滑走面に刺さる。そのため滑りが悪くなるのだ。すなわち、速く進むために、より一層の体力が必要となる。きつくなるとはそういうこと。板を滑らせるためには滑走面の細かいミゾ加工やスキーワックスで対処するのだが、ただ、この話は選手にとっては勝敗に関わる大事なところだから内緒にしておこう。
ところで、消防車の正面に付いている消防章。あの六角形に込められた意味をご存じだろうか。答えは市ホームページの「ながのキッズサイト」を参考にしていただくとして、形は雪の結晶を元にデザインされている。水の分子が手を取り合うようにくっついて凍ることが団結を連想させるとのこと。確かに、団結なしに火事場の対応はできないことを象徴するマークだと思う。私の市政運営も2年が経過。雪をも溶かす情熱を持って、職員と団結し、市政運営に全力で取り組む。雪の季節、新しい年の決意である。
自転車で風を切る。その心地良さを感じつつも、ハンドルを握る手には暖かい手袋が必要な季節となった。
私の相棒は、前と後ろに座席のある3人乗りのいわゆるママチャリだ。保育施設への子どもの送迎で使っていた自転車は、子どもたちの成長に伴い、今は私の通勤にのみ活躍しており、もっぱらパパチャリというところ。思えば、前の座席にいる子どもの匂いを感じながら、弾んだ会話の一つ一つが懐かしい。4人の子どもを代わる代わる送り届けたり、迎えに行ったり、子どもの成長を感じながらペダルをこいだ日々は、残念ながらもうない。
自転車は15年近く使っているため、何度かタイヤ交換をしたし修理もした。玄関先で風雨に耐えてきたこともあって、さびや色抜けでだいぶくたびれてきているのがよく分かる。不具合があれば自分で修理した。これまでで一番苦労した作業は変速機の修理だった。真っ黒な油で手を汚して、もうダメかと思いながら作業を進めたものだ。しかし、再び息を吹き返した時はうれしさのあまり声が出た。「よし、また走ろう!」。
もともと自転車は好きな方だ。スキー選手時代、よくロードバイクで長距離を走り、マウンテンバイクで野山を駆け回った。安全に気を付け、注意深く乗っていたため、幸い大きな事故やけがはなかった。そんなこともあって、やはり自転車で風を切るのは楽しいと思う。もちろん、若い頃のような激しい運転はしないし、そもそもの自分の体力も落ちている。もうそんなにペダルを踏み込めない。とはいえ、電動アシスト付き自転車を見ると、いつも自身に言い聞かせる。「これからも決してアシストの世話にはならないぞ」と。なぜなら、子どもを乗せていた時も使わなかったからだ。一方、相手(自転車)は私を誘惑する。「スイッチオンでもっと楽に走れるよ。そんなに頑張らなくてもいいじゃない」と。
子どもを乗せて走ることはなくなりはしたが、これからも相棒の古い自転車に乗って、風の中を走る日々は続いていきそうだ。
額に汗して日影を探しながら歩いた季節から、朝夕は肌寒さを感じるようになった今日この頃。こうなると、夏の暑さも忘れてしまいそうになる。この夏、長野市では30度以上の真夏日が連続53日で、昭和60年の連続41日から大幅な記録更新となった。
暑さが残る9月中旬、化石や恐竜で地元地域を盛り上げようと企画されたイベントに招かれ、信州新町化石博物館に出かけた。イベントの目玉は博物館近くのグラウンドで行われた、恐竜の着ぐるみを着て走るレース。100人ほどの参加者が、空気で膨らませた恐竜の着ぐるみ姿で、50メートルを全力疾走する姿は、ほほ笑ましいというより抱腹絶倒ものであった。恐竜たちの熱戦を見ていた子どもたちからは、「誰が入っているの?」との声も聞こえはしたが、恐竜が最も繁栄していた約1億~2億年前の地球の姿を観客が想起したのであれば、走者には33度の気温のもとで流した汗も報われたというものだろう。当日の化石博物館は入館無料だったこともあり、入場者数はかなり多かった。恐竜の求心力を再認識できたことだろう。このイベントそのものは、ユルさや面白さを前面に出してはいたが、大会役員が恐竜に扮(ふん)しつつも全力で運営にあたり、参加者も本気で楽しんでいる姿から、今後も続くイベントになることは必至であると感じた。
この斬新な企画を進めるに当たっては、「それは、ちょっと難しいのでは・・」という声もあったことだろう。新しいアイデアや、これまでやったことのないことを創造するのは難しいものだ。でも、チャレンジ精神を持って一歩前に踏み出すことができれば、それはそれでまた違う景色が見えてくるもの。残暑厳しい、乾いたグラウンドを疾走する着ぐるみたちが見せてくれたものは、実は、ジュラ紀に繁栄した恐竜の姿だけでなく、夢の膨らむ挑戦が見せてくれた新しい景色と潤いだったのかもしれない。
市内の夏祭りを巡った。それぞれの祭りのにぎわいが近づいてくると胸が高鳴った。太鼓や笛の音、踊りの音楽がこれほど待ち遠しく感じたのは人生でも初めてのことだった。
この3年間ほどは、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため中止が相次いだ祭り。5月から感染症法上の位置付けが5類になったこともあり、各地域ににぎわいが戻ってきた。市内の大きな夏祭りの一つ、長野びんずる。善光寺の不滅の常燈明から採火された灯(あか)りのもと、「そーれっ!」の掛け声で多くの連が舞い踊った。踊り手の額ににじむ汗で、弾ける笑顔の輝きが増していた。
市内各地域の祭りに招かれた際には、皆さんが満面の笑顔で迎えてくれた。地区の住民自治協議会長をはじめとした地区役員の皆さんが、無事に祭りを開催できた安堵(あんど)感に浸る姿はとても印象的だった。
数年来、止められていた祭りへの想いを、我慢を重ねて、この夏まで辛抱強く待ったのだ。そんな日々からようやく解放された象徴としての今年の祭りは、誰の心にも深く刻まれただろう。
祭りといえば、思い出すのは子どもの頃に担いだみこし。特に、みこしを担いだ後にできた、肩の真っ赤な腫れのことだ。激しい痛みと腫れの残った肩は、一生懸命担いだことの誇りだった。
普段は学生服や体育着しか見ることのない友人たちが法被姿で祭りに集まった時の照れくささもつかの間に、全力で担ぎ、大きな掛け声で喉(のど)が枯れもした。そして、肩の痛みが取れる頃になると、なぜか少し大人になった気がした。
あれからずいぶん長くみこしを担いでいないが、にぎわいが戻った夏の祭りの日に、忘れかけていたあの情景が、懐かしさとともによみがえり胸を突いた。祭りの帰り道、思い出を遠ざけまいと、にぎやかさが聞こえなくなるまで耳を澄ませた。
「子どもたちの参加促進」「美しく豊かな自然との共存」「平和と友好の祭典の実現」を大会の基本理念のテーマとして開催された長野オリンピック冬季競技大会(以下、長野オリンピック)。記憶は今もなお色あせることなく強烈な思い出として私の胸のうちに生き続けている。ホームグラウンドで競技できた喜び。メダル獲得を目標に挑んだ試合。自分がぺしゃんこになりそうな重圧。あと一歩でメダルに届かなかった悔しさ。複雑な心境が少し残るのも事実だが、今となっては力の限り応援してくれた人々の前で競技できたことの幸福感が大きい。
長野オリンピックの参加者は、もちろん選手だけではなかった。警備、輸送、会場整理などの運営や、文化交流を通じて大会を成功に導いてくれた多くの人たち。担当する役割に、それぞれの人が必死になって取り組んだ結果、大会は国内外から高く評価された。
そして、参加者の中には「雪ん子」がいた。市内の小・中学生からなる150人の子どもたちは、「雪ん子」として、オリンピックスタジアムで行われた開会式で世界各国の国旗がデザインされた白い衣装を身にまとった。歌手の森山良子さんが歌う「明日こそ、子供たちが・・・WHEN CHILDREN RULE THE WORLD」に合わせて踊りを披露し、聖火点灯のシーンでは聖火台に続く長い階段に立ち、彩りを添えてくれた。また、長野オリンピックに始まり、以降のオリンピックでもその運動が継承された「一校一国運動」では、市内全ての子どもたちが、「世界」とつながる「手触り」を感じたのではないかと思う。
あれから25年の歳月を重ねた今、あの経験は、子どもたちのその後の人生に何らかの影響を与えたのだろうかと思うことがある。人生はさまざまな経験からつくられる。故に子どもたちもまた、人生を形づくる何かを得たのではないかと。もちろん私には知り得ることはできないが。
ただ、確かなことは、当時、まちを挙げて、「子どもたちの参加」を応援し、参加と体験から学びを得ることで、人生を豊かにしてほしいと願ったことだ。
その想いはまだこのまちに生き続けていると市民みんなで共有すること。それこそが、オリンピックレガシーなのだと思う。
本紙5月号では、ちょうど山菜の季節ということもあり、私の好きな山菜とその食べ方を紹介した。加えて、市民の皆さんには、「イチ推し山菜とそのレシピを教えてほしい」とアンケートへの協力を呼びかけたところ、300件以上の回答があった。回答を寄せていただいた皆さんに心から感謝しつつ、結果をみての感想をお伝えしたい。
まず、「イチ推しの山菜」ではタラの芽が1位でコシアブラ、こごみの順で続いた。山菜の王様といわれるタラの芽は、やはり王様であることが確認できた。コシアブラ、こごみと答えた数も他の山菜よりも断然多く、タラの芽と合わせたこの3つが“三大山菜”といえる結果となり、私も大いに共感したい。また、「レシピ」についての回答では三大山菜とも、天ぷらが一番多かった。こごみをおひたしで食べる私にとっては、この結果は意外に感じたが、皆さんがさまざまなレシピで山菜を味わっていることを知り、もう来春を待ち遠しく感じるほどである。
先のエッセーで、タラの芽天ぷらの生ハム巻きを紹介した後、それを読んだ人から「あのレシピはおいしかった」「山菜の新しい食べ方を紹介してくれてうれしい」との声をいただいた。
こうやってみんなでさまざまな事例を紹介し合い、生活に取り入れていくと、「自然と共にある長野市の暮らし」はもっと楽しくなるに違いない。
わが家の小学3年生の子も、春の山菜採りの際は、一緒に行った友だちとにぎやかに、そして、張り合うように山菜を採るのに夢中になっていた。そんな姿を見れば、山菜は大人も子どもも夢中にさせる「山の宝物」であることがよく分かる。その宝物がわれわれに与えてくれる体験は、暮らしの満足感につながるものだと思う。
ああ、山菜よ、今年も恵みをありがとう。また次の春も元気に会おう。
野山の恵みが身近にある長野市ならではの食の楽しみを市内外の皆さんと共有するため、「山菜」という旬のキーワードを使ってLINEを利用したアンケートを実施しました(アンケート実施について、広報ながの5月号市長エッセーのページでお知らせしました)。
結果は次のとおりです。アンケートにご協力いただき、ありがとうございました。
「教えてください、”イチ推し”の山菜とそのレシピ」アンケート結果
「市役所組織をチームに!」と言ったら、私の意図するところは伝わるだろうか。
かつてスキーチームのコーチとして活動していたとき、チームづくりの要は自律的な個人をつくることだと信じていた。なぜなら、自律的な個人が集合した組織は、お互いを尊重し、困難に向かって前進する、活力溢れるチームになると考えたから。そのチームには世界で活躍する選手も所属していたが、こうした選手は「自らを律する」ことに優れており、自分の長所を伸ばし、弱点を克服するすべをよく理解している。だからこそ、練習内容や活動計画など、コーチからの提供を待たずに自発的に準備できる。それは、その先に目指す目標がはっきりと見えているからであり、そのような選手には、もはやコーチは必要ないとも言えるくらいである。
さて、そもそもコーチとは何だろうか。調べてみると、英語のCOACHの語源は「馬車」とある。ある地点から別の地点に物を運ぶ道具ということであり、転じて、スポーツの現場では、「今あるレベルから高いレベルへ選手を引き上げる人」と言える。コーチの役割は、選手本人とは違う目線で、目標達成の前に立ちふさがる障害を明確に捉え、改善のための提案をすることや、語源通り選手を励まして目的地まで引っ張っていくことなのである。そこで重要なことは、選手とコーチが目標や課題を共有し、同じ情熱を持って心を燃やすことだと考える。
市が課題解決のために動くときも同様だと感じている。単に、上意下達で、担当する部局に指示するのではなく、職員と目標や課題が共有できているかを確認し、職員からの自発的なさまざまな提案を支持し、施策を始動させることが大切だと思っている。指示や指導で一時的に動くのは、チームとは言えない。
ところで、TEAMとは何だろうか。語源を調べても明確な答えが得られなかったので、私の勝手な解釈を紹介すると、手を(T)取り合って、笑顔で(E)、明るく(A)、前に(M)進むもの。これが私の考えるTEAM(チーム)である。
日頃から、自分の言葉で文章を書く機会をつくるように心掛けている。以前、ある新聞社からコラムを書いてほしいと頼まれたことがあった。月に一度、スポーツ選手としての経験や視点を生かし、日本のスポーツに対する評価や提言を期待するという依頼内容だった。作文が得意ではないからこそ、良い機会だと思って受けた。
月イチとはいえ、必死に言葉を絞り出し、やっとの思いで作った文章を提出すると、プロの手直しによって見事に読み応えのある記事となった。
あれから20年近くたつが、この間、幸いにも寄稿の依頼などにより、書く機会には恵まれてきた。今も、文章を書く習慣を絶やさないように、また自分の思いを伝えたいとの思いから、「広報ながの」にエッセー欄を割いてもらっている。文章を書く機会がなくなれば、自分の想像力(創造力)が衰えるのではないかとおびえもする。なぜなら、SNSの普及によって、短い文章やスタンプ一つでメッセージは伝えられるが、情景を細かく描写したり、感じたことを説明したりする機会が減ったと思うからだ。エレベーターは便利だが、階段を上り下りすることで体力低下を防ごうとする気持ちと似ている。
文章を書く際に気を付けていることは、「自分の思いが読み手に伝わるか」ということ。「伝える」のではなく「伝わる」ことを意識しながら言葉を選ぶが、いつも難しく、文章力の無さを痛感する。そのため、自分の思いが少しでも「伝わる」ようにと、「広報ながの」では身近な出来事を取り上げたエッセー形式としている。
さて、最近の話題に生成AIがある。人工知能がビッグデータを活用して文章を作ってくれるという。これを使えば事務資料の作成には有効だろうし、私としては「エッセー原稿は明日までに。」と広報担当の職員に言われて焦ることもなくなる。でも、「いつかエッセーに」と心にとどめておいた言葉や、自分の身から出る言葉を大切にしながら、提出期限ギリギリまで悩むのもそう悪くないと感じている。
山菜の季節が来た。この季節を「待ってました!」との思いでいるのは私だけではないはず。山菜は種類が豊富で食べ方もさまざまだが、その中でも王様と言われるタラの芽を食べられると思うと心が弾む。私にとってはタラの芽が一番なのだが、二番に挙げるとすれば、それはコシアブラ。それぞれウコギ科の植物であり、程よい香りと苦味が共通点である。
タラの芽の食べ方として一番のお気に入りは天ぷらの生ハム巻き。タラの芽特有の香りと苦味に加え、生ハムの程よい塩加減が絶妙にマッチ。揚げたてアツアツを生ハムで巻いて一気に口の中へ放り込めば、口いっぱいに広がるのは幸福感。「春はこれだね!」と、つい言葉が出る。
この味を教えてくれたのは市内の飲食店の主人。2年ほど前に訪問した際、「ちょうど旬のタラの芽がある」と聞き、調理方法を尋ねたところ「天ぷらにして生ハムで巻く」とのこと。初めて聞く食べ方に大きな期待が湧き、さらに、出された料理は期待をはるかに上回った。それからというもの、タラの芽が手に入ると自宅ではいつもこの方法。ぜひ人にお勧めしたいと思いながらタラの芽の食べ方をインターネットで検索してみると、意外にも多くの人たちが同じように食べていた。もしや、知らなかったのは私だけか。世間知らずとはこういうことなのか。
となれば、かつて長野市のカタチは何に見えるか、市民の皆さんに聞いてみた時のように、「山菜のとっておきの食べ方」を尋ねてみたくなった。
新緑の季節は、芽吹く自然の力を食すると元気が出る。それこそ、山が身近にある、このまちならではの食の楽しみだと思う。自然と共にある長野市の暮らしを、もっと豊かに体感するために、ぜひイチ推しの山菜とそのレシピを教えてほしい。
ようやく、マスクから解放されつつある。これまでおよそ3年間、マスク着用は生活そのものを息苦しく感じさせた。いよいよそんな暮らしから解放される。もちろんコロナウイルスには今後とも十分に留意することは大事だ。
思い起こせば日本では、新型コロナウイルス感染症が発生してからのマスクの着用定着は早かった。対して海外では、法律でマスク着用を義務化するなど、国民性の違いを感じたものだ。
最近、海外のスポーツイベントなどではマスクを着用している人は見られない。“ノーマスク”への切り替えが早いのも国民性か。
人の感情を読み取る時、欧米では口元に、日本では目元に注目する傾向があるという。そのため、欧米ではサングラスの着用に抵抗がなく、日本では口元を覆うマスクに抵抗がないのだとも。確かに、スキー場などではサングラスを着用する機会が多いが、人と会話をする際には、「サングラス着用のままでは失礼かな。」と思うことはよくある。
ところで、芸能人などの日常生活が話題になる際、帽子を目深にかぶり、マスクをしている姿が紹介されることがある。プライベートな時間では誰にも気付かれずに、落ち着いた時間を過ごしたいのは皆同じ。でも「誰かがこちらを見ているかもしれない。」と気になるため、帽子とマスクで姿を隠したいのではないかというのが私の見解。というのは、オリンピック選手時代の私がそうだったから。ただ、帽子とマスクで姿を隠そうとする自分自身に対して疑問もあった。「なぜ、人の目が気になるのか。なぜ、気付かれたくないのか。」と。
その疑問に明確な答えは出せなかったが、「人の視線など気にせずに自然体でいこう。」と心に決めてからはずいぶん気持ちが楽になった。
しかし、その時以来新たな問いに向き合っていることも事実。「自然体とは何か」。これにもなかなか答えが出ない。
先日、市に絵本が贈られた。寄贈者はフリースタイルスキーモーグル元日本代表の上村愛子さんだ。
物語には、雪で遊ぶ楽しさや、近年の地球温暖化の危機などが盛り込まれ、上村さんの想(おも)いがたっぷり詰まっている。絵は上村さん自身が担当したそうだ。絵本は各市立図書館に置くので、多くの皆さんに読んでいただきたい。
絵本といえば、子どもへの読み聞かせはよくした方だと思っている。4人の子どもたちに、私に読んでほしい絵本を選ばせては、寝る前に枕元で読んだ。読み進めるうちに眠ってしまう子もいたが、絵本から広がる世界を思い描き、物語のその先を楽しみにするまなざしに、読み手のこちらも気持ちが乗ったものだった。この春、一番下の子も小学3年生になる。もう家では、誰も絵本を読んでほしいと言わなくなったことが、少々寂しい・・・。
一方、進学を控える子が2人。希望する進路を初めて聞いた時、妻とともに「そうきたか」と驚いたものだった。親の思いをよそに、それぞれに自分の生き方を考えているのだと実感した。
ところで、わが家では、私なりに子どもたちに言い続けてきたことがある。それは「自分が進む道は自分で決めること」だ。当たり前のことではあるが、困難の多い人生を乗り越えていくためには、挑戦し続けることや、それを支える自分の強い意志や意欲が必要。人生を先に生きてきた者として、自身の経験や教訓、情報を判断材料として与えはするが、最終的に決断するのは「自分」としている。
わが子の決断は親の予想を超えはしたが、自分がよく考えた中で、希望に満ちた未来を見据えて決めたこと。だから、親の不安は尽きなくても、旅立つ日が来たら気持ちよく送り出したい。
この時季、まちは新たな挑戦に臨む若者たちで溢れている。自分の物語の新たなページを開こうとするエネルギーが周りにも伝わってくる。もちろん不安もあるだろう。でも、大丈夫。物語の主人公はあなたなのだから。
冬季は海外での生活が長かった。スキー大会出場のために一度海外遠征に出かけると、ほぼ市内の自宅に帰ってくることができなかった。ヨーロッパを中心とした海外での暮らしは、やや不便を感じたものだった。
まず、宿泊先では風呂に浸かることができなかった。浴室はシャワーのみで、浴槽がないところがほとんどだったからだ。しかし、その代わりによくサウナを利用した。ヨーロッパでは、宿泊施設にサウナが設置されているところが多い。フィンランド滞在時には、90度くらいの熱いサウナから、一気に外へ飛び出して氷点下20度の雪の中に飛び込んだものだが、これがたまらない。雪から顔を出して夜空を見上げると、たまにオーロラが浮かんでいた。
そして次に、洗濯機が使えなかったこと。宿泊先では、リネン類の洗濯を外部に発注せず、自前の洗濯機やプレス機で仕上げるため、客に貸しているとスタッフの仕事が進まないからだろう。そのため客室の洗面台で、小まめに手洗いした。絞った衣類を室内で乾かすことは、室内の乾燥を防ぐ上でも有効だった。眠っている間、乾燥で喉を痛めたら、大会どころではない。
海外での転戦生活は、日本との暮らしの違いから不便を感じたこともあったが、工夫をすればなんとかなったし、さまざまな知恵もついた。今となっては全てが良い思い出である。
ところで、長期遠征に出発する際、よく「米は持っていくのか」と聞かれたものだ。これは一度も持って行ったことがないのが事実。「郷に入っては郷に従え」で、パンやパスタなど、食べるものさえあれば困ったことはなかったし、遠征先のあちこちで食したものは全てが力になった。
ただ、帰国してすぐに飛び込んだ先といえば焼肉屋だった。が、多く食べていたのは肉よりも「どんぶりメシ=白米」だったかも。「日本人の体は米でできている」と誰かが言っていた。同感である。
スマホ*を使った支払いサービス、スマホ決済を体験してみた。マイナンバーカードの健康保険証としての利用申し込みと公金受取口座の登録をしたことで1万5千円分のポイントが付いた。それを使ってみようと思い付いたのだ。
実は、スマホを使った支払いはこれまでしたことがなかった。社会全体で、スマホ決済という仕組みが加速する中、これまで現金かクレジットカードで支払いを済ませてきて、不便も感じてこなかった。ただ、使い方が分からない、というのが本音。とはいっても周囲を見れば、スーパーで、コンビニで、タクシーで、スマホをかざして支払いを済ませる人たちの姿。ひそかに、憧れていた。いつか自分もスマートに支払いをしてみたい・・。しかし、初体験というものは、いや応にも緊張するものだ。うまく使えない姿をさらすのは恥ずかしい。周囲の目が気になる。
そんなためらいを抱えた日々が続く中、ついにスマホ決済デビューのチャンスが到来した。
先日、クリーニング店に行った時のこと。目に入ったのはスマホ決済の表示。私以外に客はいない。店員さんも一人だ。この時を逃すわけにはいかない。「あのー、スマホで支払いできますか?初めてなので使い方を教えてください。」
店員さんは、勇気を振り絞った私の様子を一切気に留めず、使い方を教えてくれて、あっという間に支払い完了。初体験はあっけなく終わったが、その便利さに感動すら覚えた。
以来、スマホを使った支払いが増えてきた。財布の中身も気にならなくなった。そして何よりも、自分もデジタル化の波に、わずかでも乗れたことのうれしさを感じている。デジタル社会のさらなる進展を望むが、「今さら聞けない」という人たちへのちょっとした背中のひと押しも大事だと感じているのは、臆病な私だけか。いやいや、「私もなかなか聞けなくて」という人も多いのでは。思い立ったときに、勇気を出して一歩踏み出してみてはいかがだろうか。
*スマホ…スマートフォン
「何に見えるかな?長野市のカタチ」アンケートを長野市LINE公式アカウントで実施した。これは、長野市のカタチが「馬に見える」という私と、市職員の「鳥に見える」との「見え方の違い」から始まったカタチ論争に、市民の皆さんにも加わっていただいたもの。
その結果はページ下段のとおりで、多くの回答を得ることができた。そこで、その結果の一部を紹介するとともに、結果から感じた私の思いをお伝えしたい。
まず、一番多かった回答は「鳥の仲間」でハトなど。次いで「犬の仲間」でプードル、シュナウザーなど。それに続いて「恐竜・怪獣」でプテラノドン、ドラゴンなど。多種多様な回答に、驚き、感動した。
ある小学校の先生は、社会科の授業の中で「長野市のカタチ」について子どもたちが考えた結果を回答してくれた。また、ある家庭では、子どもたちを含む家族全員で何に見えるかアイデアを出し合ってくれたとのこと。
私が投げかけた一つの問いに対し、いくつもの好奇心が生まれ、市内外のさまざまな場所で「長野市のカタチ」について考えを巡らせていただいたことは本当に嬉しく思う。
人は「抽象(長野市のカタチ)」から「具体(モノ)」を想像する際に、その人の固有の経験や記憶が深く影響するという。10代前後の子どもたちからの回答に恐竜や怪獣、ゲームキャラクターが多かったのは、図鑑やゲームの影響があるのかもしれない。また着物を着た人物が両手を広げ祈る姿と答えた50代の回答など、「なるほど・・」と思わせるものが多く、印象に残った。
私自身は、異なる見え方が多数存在することを通じて、あらためて社会にある多様性を再認識した。多様性ある地域社会を構築する上では、具体にとらわれ過ぎず、抽象的発想から、共通性を見いだすことができるのではないか。
そこで、「長野市に暮らす人々」を抽象、「人々のそれぞれの幸せ」を具体と想定し、抽象と具体とを行ったり来たり、考えることを繰り返しながら、まちづくりを進めれば、長野市はひとりひとりが幸せな、一つのまちになる、とアンケートへの協力に感謝しつつ、そう確信した。
毎朝いつも決まった場所でラジオ体操をしているが、雲の少ない日はそこから飯縄山がよく見える。
飯縄山は裾野が広くドンと構えた山で、見ていて気持ちが良く、そして元気が出る。これまで、この山には幾度となく登った。ゆっくりした登山ではなく、駆け足で。山を駆け登るのは、ノルディックスキー選手の持久力を強化する練習の一つとして、一般的なものである。最近では「トレイルランニング」と呼ばれ、その愛好者が増えているが、以前から山の中を走り続けてきた私には、仲間が増えてうれしいばかりだ。飯縄山の山頂まで、走って登れば50分程度。山頂に到着した時にはかなり汗だくになった。しかし、山頂から見下ろす長野市のまちの大きさが、登った疲れを癒やしてくれた。とにかく眺めがいい。ただし、一息つくのもつかの間で、体が冷えてしまう前に走って下る。登りは心肺機能の強化に、下りは脚の筋力強化に。行きは呼吸が苦しく、帰りは足にきてキツイが、その運動効果は抜群。わらべうたの「通りゃんせ」のように「行きはヨイヨイ・・」ではないが、「行きも帰りも大変」なのだ。
登山道は早春から秋にかけ、足下の残雪が解けて、落ち葉が顔を出す。そんな登山道の美しい移り変わりは今でも心に残る。残念なのは、スキー競技中心の生活だったため、冬の登山は経験がないこと。いつか時間をつくって冬にも登ってみたい。また違う景色に出会えるだろう。
日常の風景にある飯縄山は、この山に育てられ、鍛えられた私をいつも見守ってくれているように思う。そのため、ラジオ体操にもいっそう張りが出る。選手時代の苦しく辛い練習も、今では良い思い出となった。「飯縄山よ、今日も元気をありがとう。」
広報ながの先月号の「市長エッセー」に、長野市のカタチについて思うことを書いたところ、多くの反響があった。再度ではあるが、私には長野市のカタチは胸を張った馬が左側に向かって躍動する姿に見える。一方で、多くの市役所職員と同じように、広報ながのの読者からも、「右を向いて羽ばたく鳥に見える。」という意見が相次いだ。いよいよ私は少数派となってしまったのだろうか。まあ、それはそれで良いとしよう。私が思うに、長野市のカタチは縁起が良いのは間違いないのだから。
さて、ここで、一つのアイデアが湧き出した。「果たして、市内の子どもたちはどんなカタチに見えるのだろうか、何を連想するのだろうか、聞いてみたい。」ということ。特に、小学生くらいの子どもたちは、自分の暮らす長野市のカタチについてどんなことを連想するだろう。多種多様な見え方があるのだろう。馬なのか鳥なのか、あるいは恐竜や怪獣かもしれない。もしかしたらアニメのキャラクターかも。いやいや、こちらの想像をはるかに超える見え方もあると思う。そんなことを考えるだけでワクワクしてきた。
私の周りで勃発した“長野市のカタチ論争”は、いよいよ市内の子どもたちにも波及していくのか。さて、子どもたちの想像力はいかに。
ぜひ、皆さんの意見を聞かせてほしい。そこで、ご家族の協力をお願いします。お子さんに「なんのカタチに見えるかな。」と聞いてみてください。「私には〇〇に見えるけどね。」は無しで。
仕事柄、長野市全体の地図をよく見る。市内32地区の住民自治協議会の活動報告や中山間地域の振興計画、防災、産業振興などの事業計画など、市の施策説明の際には、必ずと言っていいほど地図が使われる。また、私自身、長野市での暮らしは30年以上になるから、おおよそ市の全ての地域の特色やまちのカタチは頭に入っている。
地図を見ると、いつもある動物を連想し、頭に浮かぶことがある。それは、「長野市のカタチは馬だな。」だ。胸を張った馬が左側に向かってたくましく躍動する姿と重なる。
しかし、このエッセーを書きながら、「もしかしたら、そう思っているのは私だけかもしれない。」と心配に。そこで、市役所職員も地図をよく見ているはずだから、私の意見に賛同してくれるだろうと思い、数名に聞き取り調査をしてみた。すると、思いもよらない意外な答えが返ってきた。「私には右を向いて飛んでいる鳥に見えます。」とのこと。「鳥!?」。
質問したほとんどの職員が鳥に見えると答えた。私のような馬派ではなく鳥派しかいなかったのである。鳥と言われると確かにそうにも見える・・。
採用後、職員研修などで「飛躍する鳥のカタチに見える長野市は・・」などと説明を受けるのだろうか、かなり刷り込まれていると感じた。しかし、もうここへきたら馬でも鳥でもよい。
かつて、市内の名馬の産地といわれた地域では、良馬生産の願いを込めた神事が長い歴史とともに受け継がれている。それを象徴する藁(わら)馬は地域の保存会員の手によって大切に作られている。また、市民憲章の最後の一節に「豊かに発展する未来へ向けて羽ばたく」とある。
馬のように躍動する長野市。鳥のように羽ばたく長野市。長野市のカタチが、とても縁起の良いカタチに見えることはどうやら間違いないのだから。
先日、市内の標高約千メートル地点にある市民菜園を訪れた。この市民菜園は、耕作放棄地の再生と、市街地と農村の交流に取り組む人たちが始めた事業である。
市街地から少し車を走らせた場所で、手軽に畑を借りることができ、またそのことで地域の課題解決への貢献にもつながる、なにより自分で野菜を栽培できるので、利用者の評判は良い。自分でおいしい野菜を作りたい、食べたいという人は多いだろうから、そんな希望を叶えられる本市の魅力を再認識した。
当日、その菜園利用者から「うちの畑のもの、持って行かない?」と声をかけられた。「もちろんです!」と即答。
フワッと柔らかく耕された畑に足を踏み入れ、案内された先には、なんと私の好物である行者(ぎょうじゃ)ニンニクが。丹精込めて栽培したものをたくさん分けていただくことに恐縮しつつ、ありがたく頂戴した。
たまに家族で市内の飲食店を利用したとき、店の人から「今朝、自宅の畑で採れた野菜を使っています。」と言われるとやっぱり嬉しくなる。こういったことは、都会ではなかなか体験できることではないと思う。
新鮮な水や空気、緑といった自然と共にある暮らしの中で、日常的に土に触れ、自分で作る野菜や果物を味わう。この地で暮らす人々の心の豊かさや温かさは、こんなところからくるのかもしれない、と感じながら帰路についた。
自宅に戻ってすぐに、採れたての行者ニンニクを細かく刻んで醤油漬けにした。アツアツご飯にちょっとのせて一口食べる。シャキッとした歯ごたえとニンニクの風味に覚えた幸福感。「ぜいたくだなあ。」と思わず声が出た。
先日、人間ドックの結果が届いた。人間ドックは胃カメラ検査や血液検査などを通じて、普段自覚症状のない病気を発見できる。検査結果は良好で、今後も心配なく仕事に打ち込めそうなので、まずはホッとした。
内臓などの体の内側は問題なしと分かったが、体の一部には不安が残る。不安の元は「腰」だ。実は、しばしば腰痛に見舞われる。激しい運動をした後や重いものを持ち上げた時、前かがみの姿勢を長時間続けた時など、注意をしていないと腰痛を引き起こすことがある。
スキー選手現役時代は、腰痛とは無縁だった。トレーニングや大会前後は、筋を伸ばすストレッチングを入念に行い、柔軟性のある体を維持していた。しかし、引退後は運動前後のストレッチングをおろそかにしていたため、柔軟性のない体に変化していた。
そんなある日のこと、自転車を持ち上げようとした瞬間に腰がピリリと痺れた。初めての体験に「今のはなんだ?」と思った直後から腰が固まりはじめた。人生初のぎっくり腰だった。友人の肩を借りて医者へ行き、腰回りにギプスを装着してもらった。しかし、翌朝は布団から起き上がることもできず、自分で靴下も履けず、その状態で講演会にも出席しなければならなかったため、だいぶ苦労した。
あれから20年ほど経過したが、痛みの痕跡というものは残るのだろうか。いまだに傷を引きずっているように思うし、こればかりは完治しないのかとも思う。もちろん、今の仕事や生活にはまったく支障はないが、十分な注意が必要であることは間違いない。
漢字で「腰」は“体の要”と書くほど大切な体の一部である。よく「頭の柔軟性は大事」といわれるが、「腰の柔軟性」もやっぱり大事だ。
仕事を終えて自宅の玄関ドアを開けると、いつもうちの子がうれしそうに飛び付いてくる。といっても、彼女はハスキー犬。5年前にわが家にやってきた。実は、私はずっと犬を飼わないと決めていた。子どもの頃、父に「決して犬は飼わない。」と言われていたからだ。私が生まれる前、犬小屋の鍵を閉め忘れたせいで飼い犬がいなくなるという苦い経験があったためらしい。自分に家族ができ、妻子から「お父さん、犬を飼いたいのだけど。」と幾度となくお願いされても断り続けてきた。ここは父親の威厳の見せどころ、「犬1匹だって大事な命。ウチでは飼いません。」と言い続けてきた。
数年前、諦めていたと思っていた妻子から、再び犬を飼いたいと相談された。すぐに断るせりふが頭に浮かんだ。しかし、今回は特定の犬種を希望しての相談だった。その犬種とはシベリアン・ハスキー。私はハッとあることを思い出した。スキー選手時代によく訪れた北欧の国々で見た、犬ぞりを引く複数のハスキー犬。いかにも雪国らしい光景とハスキー犬のキリッとした表情に「将来、もし犬を飼うとしたらハスキー犬だな。」と憧れたものだった。妻子からの相談を一度は断ったものの、ハスキー犬と一緒にクロスカントリースキーを滑る自分の姿が目に浮かんだ。数日後、生まれたばかりのハスキー犬を見に行くことになったのだが、“見るだけ”との約束を私自身が守れず、真っ先に「この子を引き取らせてください。」と言ったのだった。
あれから5年。憧れのハスキー犬は、しつけの苦労はすっかり消え、家族の癒やしとなっている。大きくなったわが家の子どもたちが飛び付いてくることはなくなったが、大きくなっても彼女は真っ先に「おかえり」を伝えてくれる。
あれから24年が経過したとはいえ、長野冬季オリンピックのことをよく思い出す。
日本選手団主将として、また、金メダル獲得を期待される者として臨んだ世界的な大舞台。大きな期待は、大きなプレッシャーとしてのしかかってきた。つぶれそうな重さに心がくじけそうになっていたのが本当のところ。
でも、そんな私に勇気を与えてくれた人たちがいた。それは、私たち選手のために寝食を忘れてオリンピック成功のために全力を傾けてくれた人たち。会場整理、輸送、警備などの運営や文化交流を通じて、大会を成功に導いてくれたボランティアの皆さんだ。ひたむきで献身的、自分の役割に真剣かつ丁寧に向き合う姿を見たとき、私こそが自分の役割としてこの大舞台を全力で戦わずしてどうするのだと強い気持ちを持つことができた。
3年前の令和元年東日本台風災害の際、本市は各地から集まったボランティアの皆さんの力に助けられた。その活躍に励まされた人たちは多い。
他者のため、社会のため、さらには共通の目標に向かうために貢献することに喜びや生きがいを見出そうとする人たちの姿は、人に勇気を与える。
くじけそうな自分が他者に勇気付けられた経験となった長野冬季オリンピック。深く心に刻まれた記憶は一生涯忘れることはない。
東京駅で新幹線に乗った。あさま号の乗客はそれほど多くなかったので、窓側に座る私の隣は空席だった。次の上野駅で通路を挟んだ反対側、窓側の座席に子どもが一人座った。小学校高学年の女の子だろうか。お互い窓側同士であり、それぞれ隣は空席である。私側の駅ホームにいる人物が窓越しにその子に手を振った。その子も私の存在など気にもせず、こちらの窓の向こうへ小さく手を振り返している。「お母さん行ってくるね。安心して。」と言っているような表情だった。
同じ日、わが家の長女が初めて上京していた。もう、中学3年生だから心配はないと思いながらも、駅で見送った妻から「無事に行ったよ。」とのメッセージが届いた時、安心感と同時にわずかな寂しさも感じられた。
長女を含めて4人の子を育てている。子育ての感動や喜びは多い。一方、苦労を感じるたびに早く独り立ちしてほしいとも思ってきた。しかし、娘がたった一人で出掛けて行った事実には複雑な思いがした。確かに「たった一人で」とは、中学3年生に対して過保護な感情だろう。でも、一人でポツリと新幹線に乗っている姿を想像してみると胸が締めつけられた。どこか遠くへ行く時がきてしまうのか。やっぱり、離れられそうもないのは親である自分の方だと改めてよく分かった。気が付けば、列車は上野駅からますます遠く離れていた。
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