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2階展示室

12.善光寺とその信仰

 極楽往生を願う善男善女に慕われ、全国に知られた善光寺。その草創期とされる善光寺境内出土瓦から、現代までの善光寺の歴史について触れたコーナーです。
 このコーナーでは、中世に描かれた善光寺の様子を写真で紹介したり、善光寺門前の遺跡から出土した遺物、善光寺を目指して建てられた道標や、近世の回国開帳の様子、江戸時代の善光寺境内の様子などを展示しています。

13.慈悲のまなざし

 長野市吉字山千寺に伝わる銅造観音菩薩立像は、市内で最も古い仏像です。また、長野市松代町清水寺には平安時代に造られた仏像が5体伝えられており、その内木造千手観音菩薩立像、木造観音菩薩立像、木造地蔵菩薩立像は国の重要文化財に指定されています。それらをグラフィックパネルで紹介しています。中央の円筒ケースでは、年に数回テーマを決めての特別公開を行っています。

14.地方武士の争い

 中世(12世紀末から16世紀)は武士の活躍した時代です。長野市内には武士団が割拠し、自らの土地を守り、広げるために時には守護や戦国大名と戦いました。市内では横田河原、漆田、大塔、川中島合戦が行われました。こうした戦は、その軍事力を支える農業や産業を発展させ、物や人の移動を活発にしました。
 市内の遺跡からは、中国製の陶器や銭、能登や尾張の陶器も出土しています。

15.川中島の戦い

 越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの12年間、長野盆地を中心とする地域で5回にわたって対陣、激突したとされています。
 博物館の建つ八幡原は、永禄4年(1561)の川中島合戦の激戦地とされ、今も首塚などが残っています。
 このコーナーでは、川中島合戦のあらすじを紹介したビデオ、当時の文書や後世の甲陽軍鑑などを展示しています。

16.近世のしくみ

 江戸幕府のもと、長野市域では10万石を治めた真田氏の松代藩をはじめ、上田藩、須坂藩、飯山藩、幕府領、旗本の知行所がおかれました。各村々には名主がおかれ、自治共同体を作って村の運営にあたっていました。
 村では個人の土地の面積を示す検地帳や現在の戸籍にあたる宗門人別帳が作られ、村の運営は文書によって行われていました。
 真田家から拝領した甲冑や真田幸良筆と伝わる忠孝の書、関ヶ原合戦図絵巻等、
見応えのある資料が並んでいます。<2018年10月 展示内容を一部更新しました>

17.街道と町のにぎわい

 幕藩体制が安定するにつれ、街道や道路網が整備され、人や物資の動きが盛んになりました。長野市域には北国街道、北国脇街道、戸隠街道、大町街道などの道が通っていました。街道の要所には、松代藩によって口留番所と呼ばれる独自の関所が設けられていました。
 また市内を流れる千曲川、犀川の大河川には、藩が管理する公の渡しと村々で管理する野渡しがありました。

18.産業と教育

 善光寺の門前町、松代の城下町では定期市が立ち、地域の産物や全国からの品物が活発に取引されていました。松代藩では木綿や菜種、養蚕、煙草、麻、杏などの特産品の販売を積極的に支援しました。
 商品の取引に必要な算用、読み書きは、村々の手習所で学びました。子どもたちは農閑期になると師匠の家に出かけ勉強しました。このコーナーでは、当時使われたお手本や机などを展示しています。

19.近代から現代へ

 明治から昭和初期、信州は全国に知られた製糸・養蚕王国でした。長野市松代町に明治7年(1874)に開業した六工社には、官営富岡製糸場で最新のフランス式の製糸技術を学んだ和田英が郷里に帰って工女の指導にあたりました。和田英は晩年、自分の経験を、回想録「富岡日記」にまとめました。
 太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、大本営の松代移転が決まり、地元住民や強制連行された朝鮮の人々が地下壕作りの強制労働にあたったともされています。作業途中で終戦を迎えた舞鶴山の地下壕には、戦後東洋一のひずみ地震計などが設置されて地震観測所として利用されています。

   
※常設展2階で富岡日記を展示しています 

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