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学芸員おすすめの一点

当館学芸員が博物館収蔵品の中でおすすめの一点を選んで紹介します。


セントルイス万国博覧会大褒賞



 1904年に、アメリカ・セントルイスで開催された万国博覧会において、六工社が出品した生糸は最高賞を獲得しました。 六工社で生産された生糸は、アメリカでその品質の良さが認められたのです。六工社は現・長野市松代町西条に1874年に設立された、長野県初の民間製糸工場です。 明治政府が殖産興業政策を目的に操業した富岡製糸場で学んだ横田英などが中心となり、六工社は造られました。 (歴史:原田和彦)


ワラデッポウ



 十日夜(トオカンヤ)のワラデッポウ(藁鉄砲)に使うものです。十日夜は旧暦の10月10日で、今年は11月24日にあたりますが、近年は新暦の10月10日や月遅れの10月10日(11月10日頃)に十日夜の行事が行われることが多くなっています。
  写真は北相木村宮ノ平のものです。同地区では、このような藁で作った鉄砲を子どもたちが持ち、歌を唄いながら家々の庭などを打ち鳴らしてまわり、モグラなどを追い払いました。 (民俗:樋口明里)


火星のスケッチ(中沢登氏関連資料)



 大正15(1926)年の火星のスケッチ。火星観測者として名高い中村要によるものです。中村は系統的な火星観測を行っており、約2年ごとに接近する火星の詳細なスケッチをいくつも残しました。
 スケッチには、火星表面の様子が詳しく描かれており、11月2日と11月8日で、見えている面が違うこともわかります。また、スケッチには、線のようなものが描かれています。当時は火星に運河があると考えられており、中村も運河を意識してスケッチしていたことがわかります。 (天文:陶山徹)


おかのえ講道具(鍬・鋤簾)



 今回紹介するのは、写真前列にある鍬と鋤簾です。皆さんご存じのように、写真後列の鍬は土を耕す道具で、鋤簾は土や砂をすくう道具です。ですが写真前列の鍬と鋤簾は市内の庚申講で、かつて葬儀が土葬だった頃に墓穴を掘るために用いられた特別な道具です。土葬では死者を屈葬するため、その棺を納めるためには掘った穴の中に入ってさらに深く掘らなければなりませんでした。写真後列にある鍬と鋤簾に比べて柄の長さが短いのは、狭い穴の中でも作業ができるようにするためです。
 実際にこの道具が使用されたのは戦前まででしたが、死者に関わる特別な道具として、簡単に処分ができず、2000年まで、庚申講の掛軸などと一緒に講の当番渡しの品として持ち伝えられてきました。 一見すると変哲のない普通の道具ですが、長野での庚申講の役割を教えてくれる貴重な資料です。(民俗:細井雄次郎)


大昔、長野に干潟があった? カキの化石  

写真1:マガキの化石 地層から採集した標本 写真2:マガキの化石 河原で拾った化石
 写真は常設展のケース内にあるカキの化石2点です。 長野市中条に見られる約400万年前ころにできた地層から採集したもの(写真1)と、土尻川の河原に落ちていた化石(写真2)になります。 このカキは現在も生息している種類で、皆さんが食用にするマガキです。 マガキは干潟の泥の上に、お互いにくっつきあった状態で生息しています。これは固いところにくっついて生息するという習性のためです。この化石も数個体がくっついているのがわかるかと思います。 このマガキの化石から、約400万年前ころに長野市西部には海岸線や干潟があったことがわかります。 400万年前に、もしカキを食べることができたら、おいしかったのでしょうか。 そして、生ガキ食べ放題だったのかもしれません。 (地質:成田健)


御陣・大鐘鋳立之図



 松代藩鐘楼(時の鐘)の梵鐘と寺院の半鐘を鋳造する様子を描いています。文化3年(1806)に天明鋳物師(てんみょういもじ)石原小四郎をはじめ7人がかかわりました。天明鋳物師は、現在の栃木県佐野市で古くから活躍した鋳物師です。
 3画面からなり、左が「御陣鐘鋳立之図」とあり、寺院に納める半鐘を鋳造しています。 右は「大鐘鋳立之図」で、時の鐘を鋳造する場面です。中央は「大鐘鋳上之図」で、鐘が完成した場面です。 なお、松代藩鐘楼の梵鐘は、大平洋戦争中に供出され、現在のものは平成3年につくられたものです。
受入番号1994C0011 (参考文献 佐野市郷土博物館『天明鋳物師―伝説から飛躍へー』 2018年) (歴史:原田和彦)


天文図解(大日方家文書)



 元禄2(1689)年に、日本で初めて刊行された天文書とされています。著者は井口常範。内容は暦に関することが主ですが、中国星座や仏教的宇宙観である須弥山の図なども書かれています。 世界の中心に須弥山があり、人間はそのまわりにある島に住んでいます。須弥山の中腹にある円は、日天(太陽)と月天(月)を表しています。(天文:陶山徹)


漁撈用具(ヤス・ウケ・アミ)

   
ヤス ウケ アミ
 かつては、長野市でも川などで魚が採られていました。漁業を専門に行っていたわけではなく、農業の合間などに鯉や鮭、ドジョウを採っていた家が多かったようです。今回ご紹介するのは、長野市内で漁撈に使われていた道具です。魚を突いて採るのがヤス、魚を誘い込んだのがウケ、魚をすくうように採るのがアミです。他にも様々な形の道具が使われていました。
 現在、長野市立博物館では、漁撈(魚採り)に使われた道具について調べています。このような道具で魚を採った経験がある方や、道具をお持ちの方は、情報をお寄せいただけないでしょうか。 (民俗:樋口明里)


恵比寿・大黒像



 昔の家には家運繁栄を願って恵比寿様と大黒様を祀る恵比寿棚がありました。この木彫りの恵比寿、大黒も松代の古民家の恵比寿棚に祀られていました。
 像の隣にある木片には像の制作年と作者、そしてこの像が何体目であるかが記されています。作者の堀内市三郎の詳細は不明ですが、明治時代に市内七二会岩草に住んでいた人であることはわかります。さらに岩草の性乗寺には、彼によって建てられた「福神二千躰」と「福神四千躰」の石碑が残されており、福神像を造ることが職業ではなく、何かの願掛けであったことがわかります。
 江戸時代、市内虫倉山には、念仏を唱えながら数多くの仏像を造ることを修行とする作仏聖が活動していました。小川村高山寺の三重塔を再建し、三重塔の中に千体の仏像を造って納めた木食山居などもその一人です。福神像を造った市三郎も作仏聖の流れを汲む一人だったのかもしれません。
 市三郎の彫った福神は笑みをたたえた素朴で優しい顔と、平面的な彫りが特徴です。七二会の倉並集落にも見られ、今里阿弥陀堂組の公会堂にも残されています。おそらく気をつけて見ていけばさらに見つけることができるでしょう。 福神のにっこりほほ笑む姿は見る人の心を癒してくれます。(民俗:細井雄次郎)


サンドパイプ:カニやエビの作った巣穴の化石

 
写真1 写真2
 スナモグリやアナジャコなどエビの仲間は干潟や浅い海の底に穴を掘って生活しています。水を含む砂はくずれやすいので、スナモグリは液を出して壁を補強し、穴が壊れないようにします。
 この穴の中に上から砂が入って固まったものが、地層中に残されることがあります(写真1)。これが巣穴の化石であり、筒状の砂の塊ということでサンドパイプと呼ばれます。  写真1と同じ場所でサンドパイプの一部分を掘り出したものが写真2です。下側では膨らんだ部分があって、枝分かれしているのがわかります。膨らんだ部分は、この巣穴をつくった生物が体を方向転換させる空間だったと考えられます。このサンドパイプ(巣穴)の形はエビやカニの仲間によって形が異なります。
※化石というと生物そのものが地層に残されたものを言いますが、大昔の生物が残した痕跡が地層中に残されたものを生痕化石と呼んでいます。(地質:成田健)


豊臣秀吉・徳川家康・真田信之画像



 うえから、豊臣秀吉、徳川家康、真田信之が連坐して描かれています。この掛軸が収められていた箱には、松代藩の御用絵師である三村自閑斎、養益の親子が文化3年(1806)に描いたとあります。現在は、1幅に2人を描くという、宗教画に近い構図ですが、当初は2幅で一対であったようです。春原浅右衛門という松代藩士の家に伝わったものです。 豊臣秀吉・徳川家康は上畳に座っていますが信之は敷物に座っています。これは格式の差を示していると思われます。 真田家は、信之の父・昌幸が豊臣方に近く、信之は徳川方に近かったといいます。江戸時代の真田家にとってみると、豊臣・徳川ともに恩顧をこうむった武将であったと解釈されていたのでしょうか。 (歴史:原田和彦)

道祖神の人形(長野県有形民俗文化財小正月資料コレクションの内)



 長野市小田切の上深沢でつくられた道祖神の人形です。1月15日に松飾りを集め、そのなかから形のよいものを使って人形をつくり、道祖神碑の前に供えます。 これらは婚礼の様子を表し、それぞれ、ヨメ・ムコ・チューニン・ニショイと呼ばれます。チューニンは、男女1体ずつつくられ、 ニショイには、ニンジンでできたショウギダル(酒樽)と米(婚礼の荷物)を天秤棒に付けて持たせます。着物には「上」の字(上深沢を意味する)を書きます。 すべて、高さは10~15cmです。ちいさくてかわいらしい人形ですね。素朴な顔も、おすすめのポイントです。(民俗:樋口明里)


古賀恒星図(中沢登氏関連資料)

 
 大正11(1922)年に天文同好会(現東亜天文学会)が発行した星図。国際天文学連合により星座の境界が定められる以前の星図なので、星座の境界線があいまいです。 また、現在の星座だけでなく、江戸時代まで使われていた中国星座も記されています。例えば、かに座には、鬼宿(二十八宿の一つ)が記されています。(天文:陶山徹)


白澤避怪図



 白澤とは、顔は人間でありながら目が三つあって角を生やし、体は四つ足の獣で背中の両側に三つずつの目を持つ中国由来の祥獣です。見た目は気味が悪いですが、17世紀初頭に中国で作られた事典「三才図絵」には、人の言葉を理解し、万物に通じた知識を持つ有能な神獣として紹介されています。また名君によってこの世が平和に治められているときに出現し、未来を予言する吉祥の獣ともされます。  写真の刷り物はこの白澤の姿を描いたもので、江戸時代、神社と寺院が習合していた戸隠山から発行されたものです。「白澤避怪図」の避怪(あやしいものを避ける)の文字通り、さまざまな災いを除ける守り札として発行されていたようです。当館にはこのほかにも、白澤のポーズが異なる、戸隠山が発行した別バージョンの守り札も収蔵されています。 今では戸隠と白澤の縁は切れてしまい、戸隠に白澤の影は全く見られませんが、江戸時代にはこの二つを繋げる何かがあったのだとおもわれます。(民俗:細井雄次郎)


長野から見つかるホタテガイの化石

 
 写真1は長野市信州新町で採集したナガノホタテで、信州新町化石博物館に展示しています。 ナガノホタテは長野市周辺でしか見つからないホタテガイの仲間です。また、450万年前ころの長野周辺の海では、このほかにシナノホタテ、ヤマサキホタテが、また日本各地では様々なホタテガイの仲間が生息していました。 ところが、この当時から比べると徐々に気候が寒冷化していくために、ホタテガイの仲間の数が減っていきます。現在のホタテガイの仲間は、冷たい海にすむホタテガイ1種類(写真2)になってしまいました。 ナガノホタテと現在のホタテガイでは、殻の全体的な形や表面に放射状に広がる凸凹の数などが異なります。このポイントはホタテガイの種類を見分けるときに使いますので、どのような点が異なるのか見比べてみてください。 ナガノホタテのほかに、シナノホタテ、ヤマサキホタテの化石は、信州新町化石博物館や戸隠地質化石博物館に展示していますので、機会があればぜひご覧ください。 (地質:成田健)


真田幸村像



 この人物こそ、知る人ぞ知る、真田幸村(信繁)です。大坂の陣での活躍は多くの人が知るところでしょう。 この絵は、松代藩士の家に伝わったもので、親となる絵(原本)を写したものです。ただ、どこにもこれが幸村の絵だとは書いてないのです。それではなぜ像主が幸村とわかるのでしょう。それは、これと全く同じ像がいくつか確認されており、古くから幸村の姿を描いたものと理解されてきたからです。 しかし、この原本と思われる、高野山・蓮華定院の絵には幸村の伯父さんの「真田信綱」の姿を描いたと書かれています。さて、像主は誰なのでしょう。謎は深まります。(歴史:原田和彦)


オンべ(御幣)



 長野市松代町の柴地区で、道祖神祭りの悪疫払いに使われるもので、長野県有形民俗文化財の小正月資料コレクションの内の1つです。1月14日にこれをつくり、15日にはこれをふって悪疫払いをしながら各家をまわり、ドンド焼きで燃やします。各家から集めた札を木につりさげており、軸には柿の木が使われています。これは、子孫繁栄を願ってのことで、柿の木は実が多くなることに由来します。
 このオンべはとても大きく、高さが約2m30cmもあります。オンべは災害や疫病を退けるためのものですが、この資料が2m以上あるので、最近私はこれをみると、感染症対策にはこれくらい人と距離をとればよいのだな、とも思うようになりました。(民俗:樋口明里)


伊勢暦(文化5(1808)年)

  

 伊勢神宮の御師たちが各地でお札とともに配ったもので、江戸時代に使われた最も広く知られる暦の1つです。暦には、大暑や立秋などの二十四節気の他、六十干支や六曜などが記されています。旧暦(太陰太陽暦)が用いられているため、1年の月の数が年によって異なります(12か13)。文化5年は閏6月があり、1年が13ヶ月となっています。その分、1年の日数も383日と長くなっています。(天文:陶山徹)








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