更新日:2024年11月1日
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現在の善光寺の本堂は、本堂再建という幕府の命により、宝永4年(1707)に造営された。創建以来12回目と伝えられていて、それまで何回もの火災に遭って、その都度再建されてきたのである。本堂の建物は火災に遭うたびに大きくなっていて、これを「善光寺の焼け太り」と言われることがあるが、何回も再建できたということは庶民の信仰が厚い寺としての善光寺を表わしていると言えるだろう。
宝暦2年(1752)に再建された単層切妻造り瓦葺きの仁王門は、弘化4年(1847)の善光寺大地震で焼失した。幕末の元治元年(1864)から再建工事が始まり、慶応元年(1865)6月春朝大仏師作の仁王像が江戸から到着、20日から仁王門完成回向開帳が行われ、仁王門は再建された。しかし、この仁王門も明治24年(1891)の火災で焼失した。間近に迫っていた27年の御開帳では、仁王像もない仮の門を急場でこしらえて、当座をしのいだ。ようやく再建に着手したのは大正3年(1914)。その4年後に竣工し、御開帳時に落慶式を行った。
この間善光寺では3回御開帳が行われたが、明治45年の御開帳のときには「露座の仁王像」が置かれていた。これは飯山の仏師・清水和助が請け負って制作したもので、和助は職工数十人とともに既存の仏像をわずか1カ月で修繕して造り上げたという。像の丈は1丈3尺5寸(約4m)で、木像の上に和紙を貼り、表面に黒色の漆を塗ったものだった。
現仁王門は大正7年(1918)に完成し、3月30日に落慶式がおこなわれた。仁王像は大正8年5月10日に安置され、高村光雲(こううん)・米原雲海(うんかい)の師弟合作によるものだった。再建費は全額を東筑摩郡山形村の永田兵太郎が寄進した。
一方、「露座の仁王像」は御開帳後公園地に移して保存する計画だったが、仁王門の再建工事が始まると、門近くの端に横倒しに放置されていたという。新しい仁王像が完成すると、鶴賀田町の普済寺を経て、信更町安庭の真龍寺本堂に昭和11年(1936)から安置されていた。平成23年(2011)、真龍寺から飯山市に譲られて、作者清水和助の故郷に1世紀ぶりに里帰りした。「寺のまち飯山」のシンボルとして、飯山仏壇事業協同組合により修復を行い、漆黒の仁王像を再現してJR飯山駅前公園に建てられた仁王門に安置されている。
(『長野市誌』、『写真は語る―長野市公文書館資料―』」より)
★JR飯山駅前公園に安置された仁王像(信州いいやま観光局提供)
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