更新日:2024年11月1日
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「かどの大丸」は、善光寺交差点の角、山道の入り口にある老舗の蕎麦屋。代々藤井名左衛門を襲名しており、もともとは酒造業の藤井伊右衛門家「西之門よしのや」からの分家と伝わる。酒造業に関わっていたが、幕末の万延元年(1860)には呉服商となり、明治になって一膳飯屋に変わった。明治37年3月15日からは、そば料理の店を開業した。店舗は明治4年(1871)呉服商の時に造られた建物で、中央通り改修時には、大正13年5月から約1年半をかけて引き家をおこなって、通りの奥へ3メートル移動させたという。
善光寺門前ということもあって、著名人が来店した記録を残している。
明治37年(1904)7月には、長野市遊説の木下尚江が大丸で昼食をとっている。
長野市遊説にきた木下尚江は立川雲平と佐藤桜哉の二人に案内されて、まず善光寺門前の一膳飯屋大丸に入り昼を食べた。大丸はもと呉服屋であったが、鉄道開通の影響をまともに受けて、呉服業は東京の三井・白木屋などに圧倒されてとうてい競争できないため、呉服屋を廃業し、一膳飯屋になった。この事実を聞いた木下は、呉服屋から一膳飯屋への変化を驚異の目でみ、「是れ豈(あ)に余が千言万語に勝りて社会主義の必要を長野市民に説明するものにあらずや」と『平民新聞』に一膳飯屋大丸の報告を載せている。北信義塾では「経済的に観察せる日本史」を概説、その夜千歳座の政談演説会にのぞんだ。会するもの六百余人、木下は社会主義者の戦争観について演説をした。城山館には戦争幻灯会があり、城山公園では児童の旅順陥落提灯行列の練習がおこなわれていた。(『長野市誌』より)
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