更新日:2024年11月1日
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鉄道交通の発達によって、長野駅利用客は大きく増えた一方で、明治35年(1902)に建てられた二代目駅舎は、老朽化がすすみ利用客に不便をきたすようになった。その様子を当時の新聞は「白蟻の巣窟と化して、駆除しても追いつかず繁殖するばかりである。また昨今のように一日二、三千人もの団体客が来たり、雨の降る日などは手狭で雨宿りをする場所さえ無い状態で、悪いことには待合室の地盤が駅前広場より低く、雨水が流れこむ状態である」と報じている。このような老朽化に加えて、昭和3年(1928)6月、長野電鉄線が権堂から長野駅まで延長して開業し、さらに善白鉄道の建設促進がはかられることで、長野駅の改築および駅前広場の拡張の動きがしだいに高まっていった。
当時の丸山弁三郎市長は名古屋鉄道局に陳情申しいれをし、また、名古屋鉄道局も改築の意向をもっていて、昭和11年(1936)3月に始まる善光寺御開帳に間にあわせるように、前年10年5月10日に着工された。このときの長野駅の設計は、名古屋鉄道局の城俊一(たちしゅんいち)によるものであった。設計者の城俊一は当時26歳で、初めて任される駅舎の設計であったという。鉄道省からは神社仏閣などを参考にした和風の建物を建てることをいいわたされたため、京都・奈良の神社仏閣を丹念に見て学んだというが、善光寺については、とらわれることをおそれ、まったく見学しなかったし、一部を模して設計することもなかったという。そんな中で生まれた仏閣型の駅舎は、当時の日本固有の文化や日本の伝統を重視する風潮や、画一的な駅舎でなく、郷土色を演出するべきであるとの考えを受けていたと言える。
駅舎建設は富山市の請負師佐藤助九郎が12万5千円で落札し、昭和10年(1935)5月に建設が始まった。駅の場所は裾花川の氾濫原で、2メートルも掘れば石が多くしまった地盤となり、基礎を固めるのに施工しやすかった。建物は鉄筋コンクリート造り二階建て延べ面積1328平方メートルで、高さ20メートルにおよぶ大屋根は、美しい曲線を出すために木造で銅板葺きとした。御開帳に間にあわせるために、建設は急ピッチですすめられたが、とくに寒い冬場は凍みあがりを防ぐため、建物全体をむしろでおおい、内部で炭火を燃やした。また天井の足場からは多くの石油缶をぶら下げてそこに炭火を入れて保温につとめた。しかし、いっぽうではそれにより何人も一酸化炭素中毒者を出したという。
完成した時、設計者の城俊一は「まわりの建物にたいしてあまりにも大きく、恐ろしいものを造ってしまった、何といわれるだろうか」と思ったというが、当時の『信毎』は「仏都を象徴した豪華なローカルカラーと明朗なモダン性を濃く彩って仏閣型長野駅が近代建築の粋を凝らして完成した。古典とメカニズムの美しい構成美が早春の空に栄光威容を発し、仏都長野市の玄関口にふさわしい色彩を多分に滲(にじ)みだしている」と絶賛している。竣工式は昭和11年(1936)3月15日。大村県知事(代理土肥土木部長)、須田名古屋鉄道局長、藤井長野市長ら参列者700余人を数え、盛大におこなわれた。当日は快晴で朝から祝いの花火が間断なく打ちあげられ、人の波にうめつくされた。(長野市誌)
★昭和11年仏閣型に改築された長野駅舎(「昭和の信州」より)
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