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更新日:2025年10月24日
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昭和26年(1951)当時、諏訪のウィンタースポーツは、諏訪湖のスケートと霧ケ峰のスキーであった。この時期長野県はウィンタースポーツのメッカ(物事の中心的・代表的な場所のこと)であり、スケートは松原湖、諏訪湖、蓼の海、蓼科湖などが全国的に知られていた。いっぽうスキー場は菅平、野沢温泉、丸池・上林(志賀高原)が代表的スキー場だった。
諏訪湖のスケートは、明治35年(1902)に札幌中学校から諏訪中学校へ転校してきた田中稲実・克積兄弟が諏訪湖で滑ったことが最初であるが、その普及を支えたのが“下駄スケート”であった。安価にスケートができるという事で急速に広まり、スケート大会が開かれたり、中学にスケート部ができたりするきっかけとなった。その5年後には秋宮リンク等の田んぼリンクも作られるようになり、スケートが一層身近なものになっていった。
大正期になるとフィギュアスケートが次第に人気となり、最初の公式競技会(第2回全国氷滑大会)が秋宮リンクで開催された。もともとは諏訪湖で行う予定だったが、結氷不安定で秋宮リンクでの開催であった。諏訪湖の結氷不安定はスケートをするために来た人々の不満の声となって、諏訪湖のスケート場としての地位は揺らいできた。大正末になると諏訪湖より標高が高いところ(蓼の海、蓼科湖)にスケート場ができたが、交通不便のため、第一には諏訪湖が選ばれていた。
昭和になると、結氷しない諏訪湖のスケートの代わりにスキー場を開発しようと、上田貢(霧ヶ峰高原の開拓をし、霧ヶ峰開拓の父と呼ばれた)などが提唱した。霧ケ峰スキー場は、昭和恐慌の最中に開発に着手して、1年余りでスキー場が開場した。新聞・ラジオによる宣伝に力を入れ、名古屋鉄道局と提携して誘客している。またスキートレイルを施設して、クロスカントリースキーによるスキーツアーを取り入れる等、日本の新しいスキーの先鞭をつけた。ポスターは昭和26年のものだが、その2年前の昭和24年に上諏訪駅に戦後最初のスキー列車が到着している。名古屋鉄道局と提携して、霧ケ峰スキー場に直通する列車を運行したのである。
(『長野県スポーツ史』、『諏訪の近現代』、『信毎年鑑(昭和28年版)』)

信毎ペンの庫
7・1・6-1
諏訪市全景3
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