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更新日:2025年10月24日
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穂高のワサビ栽培の起源は、明治初年に東穂高村の農民が北アルプス山中の野性ワサビを排水路に移植したことが始まりと言われているが、詳らかでない。穂高町は中房川、万水川等が犀川に合流する扇状地の扇端にあたるが、もともとは梨の一大産地だった。しかし、地下水位が高く病虫害が多発したため、梨の木の間に排水路を作った結果、病虫害は減り、その排水路にワサビを植えたのである。大正期になると、信濃鉄道(現在の大糸線)が開通したことで、市場への出荷が容易になったことに加えて、ワサビの主産地である伊豆・静岡が台風災害や関東大震災の被害を受けたことで、穂高のワサビは全国各地に販路を拡大した。戦争中は労働力不足や売れ行き不振で生産が停滞していたが、戦後になるとワサビ栽培が一気に拡大して、現在のようなワサビ収穫量県下一といわれる一大生産地となった。
ワサビを加工した商品は、ワサビ漬けが主であるが、穂高で初めてワサビ漬けを製造したのは東穂高村の宇留賀定十であると言われている。最初は甘酒に漬け込み、天秤棒で担いで松本平を行商して歩いたが、日持ちが悪く、2・3日しか持たないので苦労をしていた。そんな中、友人から静岡では酒粕に漬けているという情報を得て、ワサビの粕漬が製造されるようになったのである。穂高のワサビ漬けが知られるようになったのは、1.信越線、篠ノ井線の開通による出荷の拡大、2.岡谷を中心とする製糸工女が土産物としてワサビ漬けを買って帰ったこと、3.ワサビ漬けばかりでなく、ワサビ粉など時代の要請にあわせた工夫を続けたこと、などが挙げられる。
(『穂高町誌 下』参照)

信毎ペンの庫
7・1・15
穂高町八十二銀行支店
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